2017年2月24日金曜日

韓国には無意味理論

まァ、韓国だけど、さすがに大学の哲学教授、文章は非の打ちようがない
文面だと自負しても韓国社会においては、「馬耳東風」、「猫に小判」
無意味この上ない、要は国民教育~~~すべては国民教育・・・

【時論】憤怒中毒に陥らないようにしよう=韓国(1)
2017年02月23日09時23分 [中央日報/中央日報日本語版] 

憤怒の大韓民国、怒れる市民! 韓国のこの冬を端的に描写する言葉だ。メディアはろうそくデモ報道で憤怒の自然さ、正しさ、堂々さを挙げ
数えきれないほど憤怒を礼賛してきた。
多くの人は大統領の法違反と国民の信任に対する背信を考慮すると
憤怒しなければむしろ「非正常」とも言う。 

だが私たちは経験で憤怒が有用でありながらも危険な感情であることを
よく知っている。
うまく扱えばそのエネルギーを建設的に使用でき、誤って扱えば憎しみ、呪い、破壊と殺人、いや戦争の奈落にまで落ちることになりかねない。
そのため古今東西の数多くの賢者がその危険性を指摘してきたし、
韓国のメディアもやはり最近までも憤怒をしっかり調節しなければ
ならないと話してきた。 

憤怒の純粋機能を認めた代表的な哲学者の中にギリシャの
アリストテレスがいる。自身や知り合いが侮辱された時に怒るのは
当然だ。
そうでなければ愚かな人、自己防御もできない奴隷的な人とみなされる。だがこの哲学者は怒る時に5つの基準を守るべきと考えだ。
憤怒してしかるべきこと、
憤怒してしかるべき相手、
憤怒の強さ、
憤怒のタイミング、しかるべき持続時間がまさにそれだ。
5つの基準は理性からくる。憤怒という感情と理性のバランスを
しっかり維持すれば「中庸の性格」を持った者と賞賛を受けると彼は
付け加えた。 

ところでヒンズー教・仏教思想はアリストテレスとは違い憤怒に対し
とても厳格な態度を取る。
特に仏教は憤怒(瞋)を無知と貪欲とともに三毒のひとつで除去の
対象とみなす。こうした仏教の立場ではたとえ「公憤」だとしても
それが憎しみや暴力を招くならばそこに同調し難い。
1950年に中国の人民解放軍が東部チベットに侵攻した後インドに
亡命してきた14代ダライ・ラマが代表的事例だ。
彼は毛沢東を含む中国共産党指導部に憤怒の代わりに慈悲を送ると
言い、彼らのために祈るともした。 

侵略と不正に対する抵抗の歴史が私たちに憤怒という感情に対し
親近感を感じさせたのだろうか? 
卞栄魯(ピョン・ヨンロ)の詩「論介」の最初の小節がそのような
関連性を察しさせる。
「偉大な憤怒は宗教よりも深く火がつく情熱は愛よりも強い」。
偉大な憤怒-究極的な自己犠牲を伴うこうした憤怒はろうそく側にも
太極旗側にも探すのが難しい。 

メディアも憤怒に対する懸念があることはあった。
憤怒の昇華、祝祭、非暴力平和、成熟した市民という用語がその証拠だ。もちろん許しと和合よりは「革命的浄化」を図らなければならないと
いう主張を展開したメディアもあった。
特にろうそく民心を「自分のこと」とみなして大統領の座を手に
入れようとする政治家らはろうそくデモを触発した憤怒を最も人間的で
純粋な感情と呼んだり、デモ参加者を偉大なイエスに例えたりもした。
心中が見え透いた行為だ。

憤怒が扱いにくい理由のひとつは、それが私たちの内面で起き、時には
私たち自身の姿に偽装して人をたびたび憤怒中毒に陥らせるためだ。
中毒は強迫になってしまった習慣で、中毒に陥った人はそれを
統制することはできない。
そのため憤怒中毒に陥れば憤怒が主人になり、憤怒する人はゾンビの
ようになる。中毒になった憤怒は私たちの心身に習慣またはひとつの
精神的遺伝子になって合理的行為を妨害する。 

憤怒中毒を防ぐには政治家ほどにメディアの役割が重要だ。
「戒厳令を宣言せよ」とか「○○○を処刑せよ」というスローガンは
もちろん非正常だ。
だが悪口が込められた18ウォンの送金や
「バカ言ってんじゃないよ」という悪口もやはりいくら痛快に見えても
例外であり正常ではない。
政治家やメディアが後者を正常扱いすれば市民は扇動されてまね、
さらに強い呪いと悪口を浴びせるだろう。
「バカ言ってんじゃないよ」と「処刑せよ」はいとこ同士だ。
このすべての悪口と呪いは致命的ウイルスのように国全体に伝染させ
共同体精神を殺してしまうだろう。 

憤怒も愛のようにやりとりすることだ。私たちが彼らに怒れば彼らも
私たちに怒るものだ。
憤怒はやりとりして激しくなる。大統領の裸体風刺画をめぐり生まれた
憤怒と攻撃は、憤怒と侮辱に対して報復したケースだ。
憤怒交換が日常になった市民、敵意を胸に抱いた政治家、
扇情主義に陥った報道機関,
この3つの間に無言の三角体制が形成されれば私たちの社会全体が
憤怒中毒の奈落に落ちるのは時間の問題だ。
韓国に公議が蜜のように流れるようにしたいのか? 
それならあの三角体制を解体して
社会的愛情(social affection)を
広めなければならない。
それでこそ私たちと彼らの中に内在した憤怒のエネルギーを
改革エネルギーに転換し、安全に再配置することができる。
憤怒の臣下になってゾンビのように動く人はすでに主権者ではない。 

弾劾の賛否をめぐりろうそくと向かい火が激しくぶつかる。
ダライ・ラマのように互いに「敵」を許せといえば骨なしだと
ののしるだろう。そうだ。私たちはすでに憤怒で立ち上がった。
憤怒が「私」の性向、歴史的遺産、社会的構成の合同作品であることを
悟り情操的に成熟して憤怒中毒には陥らないようにしよう。
国の公議は結局私たちとあの人たちがともに成し遂げなければ
ならないためだ。 

  ホ・ウソン慶熙(キョンヒ)大学哲学科教授

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