2019年2月19日火曜日

日本各地に残されている韓国古代国家の痕跡

韓国の国会議長の日本の天皇に対し『謝罪要求』を支持するためか、
容認かしらないが、中央日報がこんなコラムを載せた。
ふざけるな、最後の一行を言いたいだけで長々とゴタク並べやがって
日本の天皇家が半島縁だって、今上陛下が平安期の桓武天皇の祖母が
百済人だったとかいったが、皇后陛下だったわけでない。
日本人のDNAは完璧に中華・朝鮮とはちがうのだ、それは歴史を見れば
わかるだろう。




【コラム】日本各地に残されている韓国古代国家の痕跡(1)
2019年02月18日15時00分 [中央日報/中央日報日本語版]

2017年大阪で開かれた「四天王寺ワッソ」の祭り。 

「日光に褪せれば歴史となり、月光に染まれば神話となる」という
那林(ナリム)李炳注(イ・ビョンジュ)の名言で前回の記事を
終えた(※日本語版への掲載なし)が、実はもう一つある。

日光も差し込まず、月光も避けるところに湿気が多ければ陰鬱な
イデオロギーがそろそろと這い上がってくる。
歴史の恣意的解釈、一歩進んで意図的歴史わい曲がそのようにして
生じる。

歴史をイデオロギーに変質させる漏気は主に盲目的愛国心だ。
日本が主張した「任那日本府」説が代表的だ。

今日では日本の学界の中ですら生命力を失っているところに、あえて
説明する価値を感じられない。ただし、
警戒しなければならないのは、それほどイデオロギー化された歴史は
政治権力に悪用されて人類に致命的な結果を招く可能性が高いという
点だ。
江戸時代(1603~1867)時から日本の国学者が主張した
「南鮮経営論」が、明治維新以降に日本の軍国主義勢力によって
韓国侵略と支配を正当化するイデオロギーとして利用されたように。




  ◆思う存分想像しても、それだけが正しいと信じるのはやめる

他の見方をすれば過去に韓国の学者が「任那」という言葉自体を
取り出すことをダブー視して、日本の学者の主張に体系的に反論を
展開しなかったこともまた、歴史をイデオロギーと区分できない
間違いから始まったのだ。
歴史は過去のことなので、後代の歴史解釈は想像力から出発する
ほかはない。
証拠資料が少ないほど想像力に頼らなくてはならない。だが、
想像と主張は違う。自分の想像が明白な証拠として立証される前までは

仮設として存在するのみだ。
その時は異なる想像、すなわち異なる仮設も受け入れなければ
ならない。
自分の想像だけ正しく他人の想像は間違っているという主張は
ごり押しであり独善に過ぎない。
明らかな資料があってもその解釈が違っていることもあるので、
資料が不足した部分についてはなおさらだ。

浅い知識と怠けた足取りで伽耶寺を訪れながら切実に感じたのが
それだった。
思う存分想像するものの、それだけ正しいと信じるのは
やめなければならないということだ。
もしかしたら見過ごされたり脱落したりしたものがないかよく
確認しなければならないが、もし大きくされたり美化されたものは
ないかも絶えず警戒しなければならないということだ。実際、
伽耶は「鉄の王国」といわれているが、人類が鉄を触ったのは
伽耶人に先立つことほぼ1500年前。紀元前1200年ごろには
すでに世界のさまざまな地域で鉄器を使っていたことが
証明されている。




人類歴史上、最初に鉄器文明を成し遂げたヒッタイト人が鉄製武器を
作ったのは紀元前1500年まで遡るということが分かっている。
彼らが作った鉄器は鉄鉱石を溶かして作ったのでなく、鉄と不純物が
混ざった鉄鉱石の塊りをたたいて作った鍛鉄だった。それでも
当時は独歩的な冶金技術であり、これを基にヒッタイト人は
鉄器帝国に成長する。
4大古代文明のうちメソポタミア文明が一番最初におこったのも
ヒッタイトの鉄器製造技術の賜物だった。

韓半島(朝鮮半島)に鉄器が入ってきたのも紀元前300年頃だ。
中国戦国時代の貨幣である明刀銭が鴨緑江(アムノッカン)
中流地域から出土している点から推測し、中国を通じて韓半島に
紹介されたとみられる。
引き続き紀元前108年、楽浪郡の設置とともに韓半島に鉄器が
急速に伝播したというのが定説だ。
したがって伽耶の鉄器は当時の韓半島の人々にとって決して
新しいものではなかった。だからといって伽耶の鉄器を
さげすむべきではないが、独歩的な鉄器だと美化することでも
ないのだ。
(伽耶の鉄製投闘具と馬の鎧、旗竿、環頭大刀など鉄製品の造形美は
否定することはできないが。)




民の人生も同じだ。
前回の記事で伽耶遊民から新羅の支配勢力に成長した
金ユ信(キム・ユシン)一族に言及したが、皆がそんなに運が
良いわけでは決してなかった。
新羅は伽耶を征服した後、今日の忠州(チュンジュ)地域に
地方都市「中原京」を開いて伽耶遊民を移住させた。
真興王の寵愛を受けた伽耶琴の名人・于勒(ウルク)さえも新羅の
首都である慶州ではない中原京で生涯を終えなければならなかった。
伽耶貴族の出身で新羅最初の儒学者であり文章家だった
強首(カンス)もまたそうだ。
強首は唐の軍人である薛仁貴に当てる文武王(新羅第30代王)の
親書を書いて文武王から称賛を受けた。

「強首が文章を作ることを自ら引き受けて書簡で中国と高句麗、百済に

意を伝えたところ、よく友好を結ぶ功を成し遂げた。
先王が唐に兵力を求めて高句麗と百済を平定したことはたとえ
軍事的功労の賜物だったとしても、また文章の助けもあったが、
どうして強首の功を疎かにできようか」(『三国史記』<列伝第6>)

それでも強首が新羅十七官等のうち八等に該当する
沙〓(〓はにすいに食)という官位に留まったことは、彼自身も
告白しているように「中原京沙梁(サリャン)人」であるために
違いない。

彼らより身分が低い数多くの伽耶の民は伽耶滅亡後、奴婢やそれに
類する身分に転落した。また、多くの人々がそのような運命を避けて
外国に亡命した。
最も近いのが日本だ。伽耶の時から交流が多かったため異質感も
あまりなかっただろう。国家や国民、国境の概念が今日のように
確かではなかった時期だっただけに日本の拒否感も大きくなかった。




 ◆当時の倭人が会った初めての外国人は伽耶人

今日、日本の大阪四天王寺では毎年11月「ワッソ祭り」が
開かれている。
伽耶と百済、高句麗、新羅、朝鮮の使節団の服装に身を包んだ
仮装行列参加者に向かって道端に集まった人波が「ワッショイ!」を
叫ぶ。この掛け声は韓国語「ワッソ?(来ましたか?)」に
由来するものだ。仏教や漢字、陶芸、建築など先進文明と文化を
伝えた韓半島渡来人に対する過去の歓迎式を再現したものだ。
1000人余りの仮装行列で伽耶服を着た人々が先頭に立つという。
それだけ数が多かったという意味だ。

実際、日本で陶質土器である須恵器が出現する時期は、
慶尚南道金海(キョンサンナムド・キムヘ)の大成洞(テソンドン)
古墳群の築造が中断される時期と重なっている。
以前の日本の土器はやや軟質の土師器が大部分だ。
須恵器は鉄分含有量が多くて深い灰色の輝きがあって丈夫で、
王室と貴族が愛用した土器だ。5世紀ごろに日本に渡った金海の
駕洛(カラク)国の遊民が作った。

これとともに、日本語の辞典を見ると「から」という言葉があるが、
「日本文化を知らない外国の人、外国文化」という説明がある。
日本列島で倭人が会った最初の外国人が「から人」、
すなわち伽耶人だったのだ。この「から」にはまた「唐」という
意味もある。「から」は最初は外国を示す代名詞として使われたが、
日本が唐と直接交易を始めながら外国の代名詞が唐になり、もともと
あった発音「から」を唐に後付したという解釈がもっともらしく
聞こえる。

日本に渡って行った伽耶人の技術が当時の日本の水準とは
比較できないほど優れていたものだったため、これらの
政治的影響力もまた小さくなかっただろうと推測することができる。
これを基に移住した伽耶人のほとんどは日本支配層に編入される。

伽耶人の痕跡が残っている日本の地名を調べると、このような
仮設がよりさらに説得力を持つ。
福岡県の可也山、韓良、多多羅川、多多羅村、佐賀県の唐津、
山口県の多羅、多多良山、奈良県飛鳥の賀夜奈流米神社、
千葉県の太太良などがそのような場所だ。
このような地名は「伽耶人が日本列島の入口である九州北部に渡って
行って大和地域まで移動する過程で各地に定着しながら残した
痕跡」というのが陜川(ハプチョン)博物館のチョ・ウォンヨン館長の
説明だ。

日本の天皇系が百済にルーツを置いているという仮設も日本社会に
対する伽耶遊民のこのような影響力と関係がなくはないだろう。だが、

それでも自惚れるようなことでもない。
それは依然としてただの仮設で、

たとえ事実だとしてもそれでどうだというのか。
われわれが日本皇室に対して親権を行使することでもないではないか。
日本は日本で、歴史は歴史にすぎないというだけだ。

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