2019年2月26日火曜日

三・一節:高宗逝去、毒殺ではなく医療事故か 逝去前に食欲不振・のどの渇き

この高宗という人物、写真で見る限りおそらく自己管理も出来ない
人物であったにちがいない。
日本の公族という、爵位の正装で取られた写真を見る限り、見るに
耐えない体形をしてる。
しかし韓国人も、あれだけ嫌っていた李朝を前面に出すとは支離滅裂
国家理念と言う思考回路は無い国



三・一節:高宗逝去、毒殺ではなく医療事故か
逝去前に食欲不振・のどの渇き

「高宗の逝去は医療事故?」

1919年1月21日に逝去した朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝の
高宗の死因をめぐり、学界では日本による「毒殺説」と、これを
否定する「脳出血説」が対立していた。ところが、このほど
「医療事故説」を主張する新たな学説が登場した。
独立記念館韓国独立運動史研究所のユン・ソヨン学術研究部長が28日に「三・一運動(独立運動)100年、過去 現在 そして未来」
(韓国歴史研究会・韓国学中央研究院共催)学術大会で発表する
「高宗毒殺説再検討」という論文での説だ。

高宗毒殺説は三・一運動当時の街頭に張り出された
檄文(げきぶん)や地下新聞だけでなく、朴殷植(パク・ウンシク)
大韓民国臨時政府第2代大統領の著書
「韓国独立運動之血史」にも記述されるほど広まった。
乙巳条約(第二次韓日協約)に反対し、ハーグ密使事件で
強制退位した高宗が、1919年1月25日に予定されていた
英親王(李垠〈イ・ウン〉)と日本の皇族だった
李方子(イ・バンジャ)さんとの結婚に反対したという話まで
飛び交ったためだ。



ユン・ソヨン部長は高宗の逝去をみとった日本人女性医師・
戸川錦子氏の当時の証言に注目した。
「4-5日前から高宗は食欲がやや落ち、不眠症と
口?症(のどの渇き)を感じると訴えたが、(担当の医療陣は)
なおざりにしていた」。
数日前から脳出血の前兆を示していたのに、医療陣が
見逃したということだ。
毒殺説の根拠とされている頸部(けいぶ)や腹部の黒い線や遺体の
膨張などについては、
「遺体が腐敗している様子を説明しただけで、毒殺を立証する
根拠にはならない」と批判的な見解を示している。

同論文には、日本が高宗逝去の発表を遅らせようとしたという見方も
掲載されている。
1919年1月25日に予定されていた英親王と李方子さんの婚礼を前に、
当時の朝鮮総督や高官たちはほとんどが日本に向かった。
このような状況で高宗が突然逝去したため、李王職事務官の
権藤四郎介らが婚礼を強行するため、高宗逝去を秘密にしたと
いうものだ。
日本の発表延期は高宗毒殺説の拡散をかえってあおり、民族的な
怒りを刺激して三・一運動の口火となったとしている。

金性鉉(キム・ソンヒョン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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