2012年11月6日火曜日

日本 と 中国


きょうは日本と関わりのあった、二人の中国人を紹介する。
記事は2ちやんねるの投稿より、転載したものである。

今の中国共産党についての、大変いい記事だから、是非よんでほしい。


「暗黒」という恐ろしさ
当時はまだ清朝という満州族による王朝が、博物館の展示物のように存在していた。
一方、清朝打倒に奔走する漢人もいた。なかでも和服に日本髪を結い、短剣を胸の前に
かざして立つ写真で有名な美貌の革命家・
秋瑾(1875~1907)は、日本でもよく知られている。
雑誌『中国女報』創刊の詞の冒頭で、秋瑾は次のように述べている。

「この世で最も凄惨で危険な二字は、暗黒である。暗黒のなかでは是非の別がつかず、
目も耳もはたらかず、人間の世界にあるべき思想も行動もすべて存在しない。
暗黒世界の凄惨な状態は、測り知れない危険をはらんでいる。
危険であって危険と知らない、これこそが真の危険であり大暗黒なのである」
秋瑾は、この文章が世にでた1907年に処刑される。
秋瑾が叫んだ「暗黒」の恐ろしさは、まさに彼女自身を殺してしまうことになるが、
果たして辛亥革命によって1911年に清朝が倒れた後、その「暗黒」も消滅したのだろうか。
問うまでもない。

その「暗黒」に共産主義という外来の憑き物がとりついて、最も恐るべき、巨大な怪物に
膨張してしまった。そのため、中国共産党の残酷さ狡猾さは、過去の中国史上のどこにも
存在しないほど増幅されたうえなんと百年後の今日まで、消滅せずに続いているのである。


1944/11/10  (昭和19)、汪兆銘、字は精衛。1944年名古屋で病死。
南京で病(撃たれたときの古傷が原因)に倒れた汪兆銘は、名古屋で治療を受けたが、
11月10日帰らぬ人となった。
小牧飛行場から遺体を飛行機に乗せて送り出す際には、近衛文麿、重光葵等が見送りに
訪れた。南京空港から公館までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。
遺言により南京郊外の梅花山に葬られた。
夫の墓を暴かれることを恐れ、棺の将来を案じた夫人は、5トンの鉄粉を混ぜた
コンクリートにより遺体の周囲を防護した。
翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。孫文を祀った中山陵の傍らに作られた汪兆銘の
墓は、蒋介石の指令で爆破され、遺体は長江に棄てられた。
その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。
(注・ここが日本と異なる。中国遺体損壊、日本手厚く葬る)
汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、共産党独裁政権のもとで、
大躍進や文化大革命で数千万人が餓 死するなど、さらに過酷な運命が待っていた。
そして今に至る まで一度も正式な選挙で自らの政府を選んだことがないという点では、
清朝時代の人民と変わらない。「革命未だ成功せず」。

本人の理想とは逆に、中華民国や中華人民共和国では代表的な「漢奸」(中国の売国奴)と
しての評価しかない。
汪兆銘氏は精衛と号した。精衛とは伝説の中の小鳥の名である。昔、炎帝の姫が東海に
溺れて死んだが、炎帝夫妻の悲歎は見るに忍びぬものがあった。
姫は精衛という名の小鳥としてよみがえり、東海をうずめるならば、後世東海に溺れる人も
ないであろうとの考えから、精衛は日夜一粒ずつの砂を口にくわえて東海に運び、
海を填めんとしたというのである。かなわぬかも知れぬが、庶民の難を救うために
努力をつづけるという寓意である。

「精衛填海」という言葉が残されている。中国四億の大衆の福祉のためにあらゆる努力を
したいという汪兆銘の悲願を精衛なる小鳥の名に託したものである。
陳璧君夫人は、捉えられて蘇州の獄につながれていたが、釈放の直前に毛沢東軍が南京、
蘇州を占領し、出獄は不可能になり、のち蘇州にて獄死。2男3女の子がいたが、
汪兆銘死後はアメリカ合衆国、中華民国、香港にそれぞれ移住した。

汪兆銘の長男の言葉「政治は結果であり、自分としては何も為しえなかった父親を讃えたり
しないけれど、父親が愛国者であったことだけは人々の間に浸透するよう祈りたい」。

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