2012年11月15日木曜日

中国考察 pt 2



{””100年たっても日本に学べ””}

トウ小平が亡くなるとき言い残した言葉ときいている。
もう4年前rになるこの記事がトップニュースででてくるのか???

*********************************


松下幸之助とトウ小平の「君子の約束」(1)
Y! 【政治ニュース】 2008/11/04(火) 10:06

1978年10月28日、小雨の降るこの日、政界と経済界の二人の巨頭の手がしっかりと握られた。

一人は中国改革開放の総設計師であるトウ小平、もう一人は経営の神様と呼ばれる
松下幸之助である。

最も早く中国に進出した外資系企業として、
松下電器産業(当時、現Panasonic)は中国の改革開放の歴史をその目で見てきた。

30年前の二人の年配者の「君子の約束」は現在も語り継がれている。

  トウ小平「教えを請う姿勢で参りました」

  松下「何であれ、全力で支援するつもりです」

1978年10月、当時、国務院副総理のトウ小平は日本を訪問した。この訪問の目的は、
日本企業の近代的な生産の様子を視察することだった。

トウ小平にとって、近代化とはまず電子工業化である。だが、当時の中国は、自動車生産の電

子化は言うまでもなく、家電生産もまだ手作業の段階にあった。
テレビや冷蔵庫、洗濯機は三種の神器と呼ばれ、庶民は購入するのに順番を待たなければ
ならなかった。

トウ小平のこの訪問に、日本の一人の伝奇的な人物がずっと強い関心を寄せていた。
日本産業界で「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助である。

トウ小平も松下幸之助に強い興味を抱いていた。視察に訪れた3番目の工場は、
松下電器産業の大阪・茨木にあるテレビ工場だった。

1978年10月28日、83歳を迎え、すでに第一線を退いていた松下幸之助は小雨が降る中、
工場の正門でトウ小平を出迎えた。

松下電器産業の当時の映像資料を見ると、トウ小平は階段を上る際、後方にいる
松下幸之助に手を差し出し、握手している。その後もかなりの間、二人の手は握られたまま
だった。そして、トウ小平が別の手を握ると、松下幸之助はトウ小平にお辞儀をして謝意を
表している。

その後、トウ小平はカラーテレビや高速ファクシミリ、漢字プログラムシステム、ビデオカメ

ラなどの製品を視察。ゆっくりと回ったのは、製品の生産過程を詳細に
見るためだった。

従業員が当時のハイテク製品・レンジを紹介。わずか数秒で1個のシュウマイが湯気を
たてながら出されたのを見て、トウ小平はすぐに手にとり口に放りこんだ。
トウ小平のこの動作に、松下幸之助は「この中国の指導者は実に人間らしい、
表面をつくろうことをせず、試食までしてくれた」と思ったという。

松下電器産業との会談で、トウ小平は当時の中国の立ち遅れた現実を。
「私たちはほんとうに教えを請う姿勢をもってあなた方とお会いすることにしたのです」と
忌憚なく語った。

さらにトウ小平は「中国は今後、近代化していかなければならず、自力更生のもとに、
外国の技術や資金を導入することにしています。
電子工業がなければ、近代化は実現できないので、あなた方の電子工業を私たちの方に
持っていければと思っています」と語った。

その率直さに、松下幸之助はいっそうの親しみを感じた。
トウ小平が「松下老翁、中国の近代化建設にお手伝いいただけますか」と問うと、
松下幸之助は即座に「何であれ、全力で支援するつもりです」と答えた。

これを聞いたトウ小平は満面笑みを浮かべ、結構なことだと何度もうなずきながら、
松下幸之助に中国訪問を招請し、松下幸之助は喜んで受け入れた。喜びここに至り、
トウ小平は日本の友人の要望にこたえ、茨木工場の記念冊子に題字を寄せた。

「中日友好前程似錦(日中友好の前途は洋々たり)」(文中敬称略)

写真は中国改革開放の総設計師と呼ばれるトウ小平。1989年撮影。


※この記事は、「中国網(チャイナネット)日本語版」による提供です。
中国網は中国国務院新聞弁公室の指導を受けて、中国互聯網新聞中心が各国語で運営する
、中国政府による中国情報ポータルサイトです。URL : http://japanese.china.org.cn/

松下幸之助とトウ小平の「君子の約束」(2)
Y! 【政治ニュース】 2008/11/05(水) 17:25

  松下「良き経営者は孫悟空のように神通を広げなければなりません」

  トウ小平「中国の近代化建設では孫悟空が不足しているのです」

支援の約束を早急に実現するため、1979年6月、松下幸之助は中国を訪問した。
新中国建国後、初めて中国を訪れた世界クラスの企業家だったことから、
松下幸之助は国賓級の待遇を受けた。民間の企業家がこうした破格の待遇を受けるのは、
過去例のなかったことである。

松下幸之助は北京に着いたその日、
京劇「孫悟空大閙天宮(孫悟空、天宮を大いに騒がす)」の鑑賞に招待された。

数日後、トウ小平との会談で「一昨日、『孫悟空大閙天宮』を鑑賞しました。
孫悟空の神通は広大でした。経営管理者も孫悟空のように神通を広げていくことこそが
大切です」と語った。

トウ小平は答えた。「中国の近代化建設では孫悟空が不足しているのです」

松下電器産業はその後、「孫悟空」を打ち出そうと中国の支援に乗り出す。
松下幸之助の訪中期間中、中国政府と「技術協力第一号」協定が結ばれ、上海電球工場に
モノクロブラウン管プラントが提供されることになった。
同工場は工場建設を前に、日本の松下電器産業に社員を研修と視察のため派遣した。
その多くが近代化建設の「孫悟空」となり、全国人民代表大会常務委員会の呉邦国も
そのうちの一人である。呉邦国は第2次松下視察団の責任者を務めた。

トウ小平は松下幸之助と会見した際、さらに改革開放や外国との技術協力などの
問題について意見を求めた。

当時、接待担当を務め、現在は中日友好協力協会副会長の座にある陳永昌は、
「松下幸之助は自らの考えを非常に真剣に述べた。大企業のトップとして、
中国の改革開放では内外の中小企業との交流をおろそかにしてはならないと提言した」と
振り返る。

トウ小平は松下幸之助の真摯な姿勢に心打たれ、「大企業として、
あなたのような意見は、まったく初めのことです」

松下幸之助は「中国の電子工業の近代化を必ず支援していく決心です」と述べると
ともに、日本電気などと共同で、電子工業化の急速な発展を支援していく構想を提起した。
松下幸之助が帰国する前に、トウ小平は再度会見し、この問題について協議した。
(文中敬称略)

※この記事は、「中国網(チャイナネット)日本語版」による提供です。
中国網は中国国務院新聞弁公室の指導を受けて、中国互聯網新聞中心が各国語で運営する、
中国政府による中国情報ポータルサイトです。URL : http://japanese.china.org.cn/

0 件のコメント:

コメントを投稿