2014年9月17日水曜日

ついにオカルト頼みか、中華共産党

やはり、逃げていたか、何時でもそうだ、戦いが不利と分かればすぐ逃げる。
日本は ”道教”ではない、”神教”だ、間違うな。

中国軍が「らしからぬ」抗日戦記・・・
老子史跡砲撃したら全部不発弾、日本軍は恐れおののきひれ伏した
2014-09-17 12:01

中国人民解放軍(中央軍事委員会)機関紙である解放軍報は16日付で
「老子ふるさとの“謝罪碑”」と題する記事を掲載した。
日中戦争中、老子の生地である河南省・鹿邑県攻略作戦に加わった元日本兵が、
現地に謝罪碑を建てたという話題に絡め、当時の日本軍は老子ゆかりとされる
史跡を砲撃したが全弾不発だったので、恐れおののきひれ伏して
謝罪したと紹介した。宗教否定の唯物論者である共産党軍の記事としては、
“きわめてユニークな戦記”と言える。

記事はまず、1938年に鹿邑攻略作戦に加わったという日本人が1997年に
現地に「謝罪碑」を建てたと紹介。
同碑には後悔と謝罪の言葉、さらに中国語、日本語、英語で
「われわれは世界人類の平和を祈ります」と刻まれたという。

記事によると、鹿邑県の“人々は、中華民族特有の広い心をもって、元日本兵が
立てた「謝罪碑」の名称を「平和碑」と改めて、“鹿邑県の人々”の平和に対する
熱愛を推進することにしたという。

中国の「県」は、市の下に置かれる行政区分で、中心にある都市または集落は
「県城」と呼ばれる。「県城」が単に「県」と呼ばれる場合もある。

日本軍部隊は1938年6月1日、鹿邑の県城攻略に当たり、まず城外から砲撃を
加えた。目標は県城内のやや大きなレンガ造りのような構造物とした。
当時の鹿邑県には他に、取り立てて大きな建物はなかったという。
日本軍部隊は砲弾13発を撃ち込んだが爆発音が聞こえてこない。

そこで目標を変えて砲撃。着弾と同時に、すべて爆発した。
敵からの反撃はなかった。実は県城内の軍民はすでに避難した後だったという。

日本軍部隊は、県城突入を決めた。突入して初めて「もぬけの空」と分かった。
最初に標的とした「構造物」に到達した。小山のような形で、ふもとから頂上まで
階段で登れる構造だった、頂上部分には廟があった。

問題の構造物は「老子がそこから天に昇った」との言い伝えのある
「老君昇天台」だった。
解放軍報によると「(中国人と)同じように道教を信仰している日本軍は
驚いて叫んだ。
『(砲弾すべてが不発だったのは)中国の老子様の御霊験だ!』。
日本の将兵は恐れおののき、あわてて土下座して、
地面に額をすりつけて謝罪した」という。

記事は、2003年になり「老君昇天台」の補修工事を行っていた際に
土台部分から不発弾1発が発見されたなどとして「数十年の謎が、ついに
日の目を見た」などと紹介した。
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◆解説◆
マルクスレーニン主義を信奉しする共産党の軍である人民解放軍の機関紙が
掲載した記事としては、「オカルト的」な香りさえする、極めて「ユニーク」な
記事だ。
記事が直接「老子の霊験で日本軍の砲弾が不発になった」と主張しているわけでは
ないが、読んだ人は「唯物論では解明できない不思議な現象があった」との印象を
持つに違いないからだ。

また、日本軍の「老君昇天台」砲撃については、不自然な記述が目立つ。
砲撃に際して、不発弾の発生は不思議ではない。しかし13発すべてが不発と
いうのは、かなり不自然だ。

かりに、全弾不発も確率的には起こりうるとしても、決定的に不自然なのは、
砲撃したのが「老君昇天台」と知った後の日本軍将兵の行動だ。
日本人は戦争中も中国の古い文化に対する敬意を失うこともあるので、
「老君昇天台」に敬礼したり、深く頭を下げることはあってもおかしくないし、
むしろ自然だ。

しかし、日本人将兵全員が狼狽し、土下座して謝罪する光景は、事実とは思えず、
中国の愛国テレビドラマの1シーンのようにすら感じられる。
「軍民すべてが逃げた街で、いったいだれが、その光景を目撃したのか」という
疑問も出てくる。

ただし、解放軍報が上記記事を掲載した意図については、一考の価値がある。
中国メディアはこのところ、「日本に対する敵愾心(てきがいしん)だけを
あおる記事」は控える傾向がある。

17日にも、JR東日本労働組合の幹部が遼寧省内で過去の戦争について
謝罪したとの報道があった。同報道は、組合として2件間の同省農村地区における
小学校19校建設のための募金運動を実施したと伝えた。

「老君昇天台」砲撃の記事も、中国に謝罪した元軍人の存在と、戦争当時の
日本軍人も「老子」の宗教的権威を認めていたとの内容で、過去の戦争については
日本や日本軍を糾弾しつつも、日本人そのものには悪意を募らせないようにする
“設計”が垣間見える。
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日本の外交は、特に対中外交では「相手の出方により、自らの方針を決めていく」
傾向が強いようにみえる。
中国の場合には、内部におけるさまざまな思惑が交差しつつも、
「どのような状態を実現させたいか」という目的意識やスケジュール感が
比較的はっきりしている。

例えば2006年9月に第一次安倍内閣が発足した後の取り組みがある。
中国側はそれまで、「(前政権だった)小泉政権時には、
日中関係の修復は困難」と認識していたとされる。

安倍政権発足後、日中関係は改善に向かった。同年10月に安倍首相が訪中した
際には、07年を日中文化・スポーツ交流年とすることが決まった
(実行委員会第1回会合は06年12月21日)。

中国側は政府・文化部主催として07年4月、東京都内で中国の国宝クラスの
伝統音楽演奏家や劇団を取りそろえた公演を実施。出演者のスケジュール調整に
必要な時間などを考えれると、中国側は小泉首相在任時から「ポスト小泉時代に
おける日中関係の修復」を念頭に、構想と企画を練っていた可能性が高い。

“答礼”としての、日本側の北京公演は翌08年にずれ込んだ。
関係者は早期実現に努力したが、日本の伝統芸能を代表する多くの出演者を
手配するために、スケジュール面などでどうしても中国側主催の催しよりも
遅れることになった。(編集担当:如月隼人)

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