2015年3月24日火曜日

周恩来“バッシング会議録

いまでも、同じようなことが起こっているのだろうよ。

周恩来“バッシング会議録”はなぜ焼却されたのか
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文化大革命中、上海市の指導者だった徐景賢(2007年死去)の回想録を
読んだ。
1年余り前に香港で刊行された「徐景賢最後回憶」である。その中から、
1973年の周恩来批判会議の記録が文革後に焼却されたいきさつを
紹介する。

毛沢東の後継者だった国防相の林彪が失脚した71年秋以降、周恩来が
実質的にナンバーツーとなった。
毛沢東は周恩来の権力が大きくなるのを嫌って、周恩来をたたくことにした。それが毛沢東の指示による周恩来批判会議の開催だった。

この批判会議は共産党の中央政治局拡大会議で、73年の11月下旬から
12月上旬にかけて連日、開かれた。
復活はしたもののまだ政治局入りをしていなかったトウ小平も毛沢東の
指示で出席し、周恩来を厳しく批判して毛沢東の期待に応えた。
周恩来はむろん自己批判した。

この批判会議のことは当時、秘密にされており、党中央委員だった
徐景賢さえも知らなかったという。回想録によると、
2006年10月、周恩来夫妻のかつての秘書が上海市の自宅に
徐景賢夫妻を訪ねてきた。
徐景賢はこの元秘書に、周恩来批判会議の記録が破棄されたとの情報の
真偽を尋ね、詳細な経緯を聞くことができた。

文革後の1980年代初め、周恩来の妻、●穎超は夫とともに批判された
葉剣英に相談し、葉剣英との連名で党中央指導部に批判会議記録の焼却を
願い出た。
党主席だった華国鋒の承認を経て、関連資料はすべて●穎超の事務所に
運ばれ、●穎超の面前で、この元秘書らの手によって焼かれたという。

周恩来批判会議について調べた徐景賢は記録が焼却された理由について、
自己批判した周恩来、葉剣英、周恩来を批判したトウ小平、華国鋒、
周恩来批判を指示した毛沢東、彼ら全員にとって事実の隠蔽(いんぺい)は
都合がよいから、と分析している。

私はこのコラムで、国家主席だった劉少奇を1968年に党から除名するに
あたって、周恩来が深く関わっていたことを物語る資料が、文革後に
●穎超の奔走によって焼却された事実をすでに書いている。
●穎超は「人民の総理」という夫のイメージを守るため、歴史資料の
廃棄という、してはならないことをしたのである。

徐景賢は「墨で書かれた記録は焼却できても、歴史そのものは焼却できない」と回想録に記している。

(元滋賀県立大学教授・荒井利明)

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