2015年4月2日木曜日

朝鮮亡国、韓国痛史

この時の、フランスもアメリカも、朝鮮半島には何もないとふんだのだ、だが
日本は違ったのだ、日本は帝政ロシアの南下政策に対抗し後にはソ連共産主義の
浸透を防ぐために大陸へも軍を派兵した。

【コラム】朝鮮亡国招いた傲慢、明治維新生んだ危機意識
「韓国痛史」が説く韓国外相・尹炳世に必要なもの

歴史家・政治家の朴殷植(パク・ウンシク、1859-1925)先生は
著書『韓国痛史』で朝鮮亡国の出発点を2回の「洋禍(外国による災い)」に
見いだした。
朝鮮が1866年にフランスと戦った「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」と、
1871年に米国と戦った「辛未洋擾(しんみようじょう)」のことだ。
この戦いで国力を使い果たし、国が衰退したという意味ではない。
「(敵が退いた後)韓国の文物や武力は十分だとうぬぼれ、
頑固傲慢(ごうまん)になり中興の機会を逃した」ことに、先生は
朝鮮亡国の端緒を見た。

2回の「洋禍」は19世紀に起こった出来事だ。外交部(省に相当)の
尹炳世(ユン・ビョンセ)長官がこのほど、最近世間で取りざたされている
「韓国外交危機論」を批判した際、叱責した「19世紀的思考」が時代を
支配していたころだ。尹長官はこうした思考を「敗北主義」「自己卑下」と
定義したが、朴殷植先生が記した時代の雰囲気は違う。
『韓国痛史』によると、高宗の実父で国政をつかさどった興宣大院君は
「洋禍」後、次のような詩を詠んだという。
「西洋の船の砲煙で天下が暗くなっても 東方の日月は万年を照らすだろう」。
朴殷植先生が亡国の原因に挙げた「頑固傲慢」がこの1行に凝縮されている。

朝鮮で「洋禍」があった間、
日本では明治維新という大きな変革が起こっていた。朴殷植先生はこのころ、
「朝鮮は『洋禍』をきっかけに自ら盲人(世情に疎い人)になった」と嘆いた。
事実、その通りだったようだ。当時の日本は自国の体制変革を伝える外交文書を
朝鮮に渡そうとしていた。
今考えてみれば、それは国運にかかわる重要な情報だった。ところが、
朝鮮はその内容を重視せずに文中の語句を問題視し、外交文書の受け取りを
拒否した。
日本が身の程知らずにも「皇(天皇)」という字を使ったというのがその理由だ。このように世情との間に壁を作った朝鮮は、外交文書拒否が日本で
「征韓論(朝鮮侵略論)」の流れにつながっていき、内戦へと拡大する実像を
正しく認識しないまま、日本統治時代に入った。

国際部=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)部長 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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