久々にいい記事に巡り合った、ホントにいい記事だ、私はこの記事に心から
同調する。まず、日本共産党だが彼らはいったい何者なんだ・・?
確かに、日本は基本的人権や、政治結社の自由がある、しかし彼らは
共産主義者であろう、共産主義のなれの果てのロシア、政治も経済も限界に
来ている独特の共産主義と吹いた中華、共産主義を利用している荒んだ国、
北朝鮮、他にも共産主義を名乗る国はあるが、この地球上において、トラブルメーカーは、ほぼ共産主義国だ。
日本共産党は政権はとれぬ、ならば日本の国政、国会を掻き混ぜることが
党利なのか・・・?、日本に共産主義者はいらぬ
共産主義者が日本の “自由民主主義” の原点を論ずるなんて筋違いだろう。
日本は世界征服目指したか?
(1/3ページ)
20日の党首討論を聞いて耳を疑った。
共産党の志位和夫委員長が、日本に降伏を求めた1945年7月の
ポツダム宣言を引用し、安倍晋三首相にこう迫った場面でのことだ。
「(宣言は)日本の戦争について、世界征服のための戦争だったと明瞭に
判定している。宣言の認識を認めるのか認めないのか」
確かにポツダム宣言第6項には、志位氏の指摘のように
「日本国民を欺瞞(ぎまん)しこれをして世界征服の挙にいづるの過誤を
犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」とある。
とはいえ、志位氏はこの認識が絶対だと本当に思っているのか。
志位氏は討論後、記者団にまるでポツダム宣言が民主主義の聖典であるかのようにこう称揚もした。
「日本の戦後民主主義の原点中の原点がポツダム宣言だ」
「ポツダム宣言は戦争認識の原点で、誰も否定できない」
だが、戦前の日本は果たして「世界征服」など目指していたのだろうか。
対英米戦は両国などの対日禁輸政策に追い詰められた日本が、窮余の策として
選んだ道ではないか。
(2/3ページ)
政府高官は討論終了後、周囲にこう苦笑していた。
「どこの国の政治家ですか、という質問だった。
日本が世界征服をたくらんだなんて、どれだけリアリティー(現実味)の
ない話なんだ。テレビを見ていた国民もそう思っただろう」
ポツダム宣言は、戦いを有利に進めていた日本の戦争相手国が
出したものであり、日本を「悪者」として位置付けるのは当然だといえる。
また、昭和2年に田中義一首相(当時)が天皇に上奏したものとされ、日本の
世界征服計画を記した「田中上奏文」が米英などの対日認識に大きく
影響していた可能性もある。
田中上奏文については、東京裁判でも取り上げられたが、日本側弁護団に
よって中国側が作った偽書であることが立証されている。
東京裁判は、先の大戦は日本の軍国主義者たちの「共同謀議」に基づく
侵略計画に沿って実行されたという見方を前提にして始まった。検察側は、
それを裏付ける証拠として田中上奏文を持ち出したが、裁判途中で偽書と
気づいて追及をやめたのである。
(3/3ページ)
志位氏が引用したポツダム宣言第6項は、この東京裁判でもインド代表の
パール判事らから数々の反論がなされた荒唐無稽な「共同謀議」史観に
貫かれている。どうして今さら、
そんな珍妙な認識を日本が認めないといけないのか。
ここで思い出すのは、これまで国会で繰り返されてきた
「日本は東京裁判を受諾したのだから、その歴史判断も
受け入れなければならない」という議論だ。
国を個人に置き換えて考えてみたい。
裁判を経てある判決を言い渡された場合、法治国家の一員である以上、当然、
その刑に服さなければならない。
だが同時に、外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に
思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ。
憲法19条「思想および良心の自由」を持ち出すまでもない。
東京裁判を受け入れたからといって、その思想や歴史観、政治的背景、各国の
都合や思惑を全部ひっくるめて引き受けることなどできようはずもない。
それが可能だと考える人は、他者の内心に容易に手を突っ込み改変できると
信じる危険な傾向を持つ人物だということにはならないか。
(政治部編集委員)
同調する。まず、日本共産党だが彼らはいったい何者なんだ・・?
確かに、日本は基本的人権や、政治結社の自由がある、しかし彼らは
共産主義者であろう、共産主義のなれの果てのロシア、政治も経済も限界に
来ている独特の共産主義と吹いた中華、共産主義を利用している荒んだ国、
北朝鮮、他にも共産主義を名乗る国はあるが、この地球上において、トラブルメーカーは、ほぼ共産主義国だ。
日本共産党は政権はとれぬ、ならば日本の国政、国会を掻き混ぜることが
党利なのか・・・?、日本に共産主義者はいらぬ
共産主義者が日本の “自由民主主義” の原点を論ずるなんて筋違いだろう。
日本は世界征服目指したか?
(1/3ページ)
20日の党首討論を聞いて耳を疑った。
共産党の志位和夫委員長が、日本に降伏を求めた1945年7月の
ポツダム宣言を引用し、安倍晋三首相にこう迫った場面でのことだ。
「(宣言は)日本の戦争について、世界征服のための戦争だったと明瞭に
判定している。宣言の認識を認めるのか認めないのか」
確かにポツダム宣言第6項には、志位氏の指摘のように
「日本国民を欺瞞(ぎまん)しこれをして世界征服の挙にいづるの過誤を
犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」とある。
とはいえ、志位氏はこの認識が絶対だと本当に思っているのか。
志位氏は討論後、記者団にまるでポツダム宣言が民主主義の聖典であるかのようにこう称揚もした。
「日本の戦後民主主義の原点中の原点がポツダム宣言だ」
「ポツダム宣言は戦争認識の原点で、誰も否定できない」
だが、戦前の日本は果たして「世界征服」など目指していたのだろうか。
対英米戦は両国などの対日禁輸政策に追い詰められた日本が、窮余の策として
選んだ道ではないか。
(2/3ページ)
政府高官は討論終了後、周囲にこう苦笑していた。
「どこの国の政治家ですか、という質問だった。
日本が世界征服をたくらんだなんて、どれだけリアリティー(現実味)の
ない話なんだ。テレビを見ていた国民もそう思っただろう」
ポツダム宣言は、戦いを有利に進めていた日本の戦争相手国が
出したものであり、日本を「悪者」として位置付けるのは当然だといえる。
また、昭和2年に田中義一首相(当時)が天皇に上奏したものとされ、日本の
世界征服計画を記した「田中上奏文」が米英などの対日認識に大きく
影響していた可能性もある。
田中上奏文については、東京裁判でも取り上げられたが、日本側弁護団に
よって中国側が作った偽書であることが立証されている。
東京裁判は、先の大戦は日本の軍国主義者たちの「共同謀議」に基づく
侵略計画に沿って実行されたという見方を前提にして始まった。検察側は、
それを裏付ける証拠として田中上奏文を持ち出したが、裁判途中で偽書と
気づいて追及をやめたのである。
(3/3ページ)
志位氏が引用したポツダム宣言第6項は、この東京裁判でもインド代表の
パール判事らから数々の反論がなされた荒唐無稽な「共同謀議」史観に
貫かれている。どうして今さら、
そんな珍妙な認識を日本が認めないといけないのか。
ここで思い出すのは、これまで国会で繰り返されてきた
「日本は東京裁判を受諾したのだから、その歴史判断も
受け入れなければならない」という議論だ。
国を個人に置き換えて考えてみたい。
裁判を経てある判決を言い渡された場合、法治国家の一員である以上、当然、
その刑に服さなければならない。
だが同時に、外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に
思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ。
憲法19条「思想および良心の自由」を持ち出すまでもない。
東京裁判を受け入れたからといって、その思想や歴史観、政治的背景、各国の
都合や思惑を全部ひっくるめて引き受けることなどできようはずもない。
それが可能だと考える人は、他者の内心に容易に手を突っ込み改変できると
信じる危険な傾向を持つ人物だということにはならないか。
(政治部編集委員)
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