2015年6月6日土曜日

日本と韓国の争点 1

[韓日国交50年の争点1] 植民地支配巡り最初のボタン掛け違えた韓日協定
登録 : 2015.06.04 17:42修正 : 2015.06.05 16:48
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1965年12月18日イ・ドンウォン外相(左から四人目)と
椎名悦三郎・日本外相(右から三人目)が韓国政府庁舎長官室で韓日協定の
発効を祝って祝杯を上げている。
協定締結はこれに先立つ1965年6月22日、東京の日本首相官邸で行われた=
資料写真//ハンギョレ新聞社

「現在、日韓条約を推進している日本政府は、過去の日本帝国主義による
朝鮮支配を肯定している。
ここにこの条約が持つ帝国主義的性格の根拠がある」。
先月4日、東京中央区の日本橋公会堂で会った和田春樹・東大名誉教授(77)は、
古いカバンの中から自身が50年前に作成した声明書を取り出した。
この文は日本の知識人が1965年6月に締結された韓日協定に対して反対意見を
明らかにした、事実上最初の声明書として歴史に記録されている。

この声明は当時、日本最大の在野の歴史家団体だった
歴史学研究会(1932年創立)の主導で、東京・千代田区の学士会館別館で
開かれた「日韓条約に反対する歴史家の集い」で初めて公開された。
和田名誉教授は「当時少壮学者だった私が草稿を書き、歴史学研究会の
委員会が内容を追認し発表した。
声明の文字は当時高等学校の教師だった父親がガリ版と鉄筆で書いたもの」と
言って笑った。

和田名誉教授は「声明は日本が朝鮮で行った植民支配を批判しているが、
当時の日本では植民支配の歴史に対して謝罪しなければならないと考える人は、知識人の間でもきわめて少数だった。
50年前、日本政府は当然ながら植民支配を反省しようとする気持ちは
全くなかった」と回顧した。

これに対し韓国では、韓国政府の屈辱的かつ反民族的な対日外交を批判する
学生・市民の反対闘争により、1964年6月には戒厳令と
大学無期限休校令(6・3抗争)が下されるなど、朴正煕(パク・チョンヒ)政権は絶体絶命の危機を迎えていた。
そのためにも日本の植民支配をどのように判断し、それを新しい条約の中に
どのように位置づけるかは、大韓民国の尊厳はもちろん政権の命運がかかった
死活的問題になった。

1910年8月から1945年8月まで35年間にわたった日本の朝鮮に対する植民支配を
どのように理解すべきか。
韓国と日本が国交正常化を成し遂げて今年で半世紀になるが、両国は
相変らずこの根本的問いに対する共通の理解に達し得ずにいる。 現在、
両国間の核心的外交懸案である「安倍談話」を巡る軋轢も、結局は日本の
植民支配をどのように評価するかというこの質問につながる。

韓国「乙巳条約は当初から無効」と解釈
日本「本来は合法…1965年に無効になった」
植民支配に対する謝罪・反省を回避
1995年村山・2010年菅談話で
初めて反省と謝罪…和解の芽
しかし安倍政権になって後退
韓国、韓日協定改正・補完論 台頭

■「もはや無効」という曖昧な表現


光復(解放)後の韓日関係年表(1) //ハンギョレ新聞社

韓日両国は1965年6月22日に東京で正式署名された
「大韓民国と日本国の間の基本関係に関する条約」2条で
「1910年8月22日(併合条約)およびそれ以前に大韓帝国と大日本帝国間で
締結されたすべての条約(乙巳条約など)および協定が“もはや”無効で
あることを確認する」と釘を刺した。
日本が韓国を併合する根拠となる条約が“無効”(null and void)であるとし、
白紙の上で新しい両国関係を積み上げようという意味だ。

一見、普通に見えるこの文章は、実はきわどい緊張の中で危ういバランスを
維持している。
軋轢の核心は“もはや”(already)という単語に凝縮されている。
韓国は条文に含まれた「(過去の条約が)無効であることを確認する」という
一節を通じて「併合条約などは当初から不法・無効」だったという立場を
取っているのに対し、日本は“もはや”という副詞を通じて
「本来は合法・有効だったが、日本の降服と韓国の建国などにより1965年
現在は無効になった」という解釈を出しているためだ。 “もはや”という
単語を通じて両国が永遠に共通の理解に到達できないかもしれない過去の
植民支配に対する性格規定という難題を回避したわけだ。

当時の日本では進歩的知識人の中でも、日本が植民支配について歴史的責任を
負わなければならないという認識を持つ人は殆どいない状況だった。
その代わり、日本の知識人社会が注目したのは、韓日協定の
軍事的・国際的な性格だった。
歴史学研究会が発表した声明の核心主張も結局、米日の支配階級が韓日協定を
通じて「アジアに対する反人民的軍事体制を強化し、日本の独占資本が韓国に
新植民主義的進出を行う道を開き、朝鮮半島の分断を固着しようとしている」という内容だった。
和田名誉教授も「当時の日本左派は、この条約がヨーロッパの北大西洋条約機構(NATO)のような北東アジア条約機構(NEATO)に進む第一歩と認識していた。
反面、一般の人たちは『日本の敗戦を朝鮮人は喜んだ。だから不届きだ』という程度の認識に留まっていた」と話した。
当時、日本の市民の間では「朴ニヤルナラ僕ニクレ」(朴正煕大統領に
請求権資金を払うくらいなら、その金を俺にくれという意味)という言葉が
流行する程だった。

そのような意味で1953年10月の韓日会談の第3回会談の時に大きな波紋を
起こした「久保田妄言」(「日本が進出しなかったなら(韓国が)ロシアや中国に
占領されて、一層みじめになっただろう」)や、交渉妥結直前の1965年1月に
公開された「高杉発言」(「韓国がもう20年、日本の支配を受けたら良かった」)は、条約を仮調印するために1965年2月に訪韓した椎名悦三郎外相が伝えた
謝罪発言(「両国間の長い歴史の中で不幸な時期があったことは誠に残念であり
深く反省する」)以上に当時の日本社会の韓国観を正直に表わしたものと
評価できる。 原爆投下とそれに続く敗戦により、自らを被害者として
認識していた日本社会にとって、「日本は加害者であり、そのために
植民支配について謝罪と反省をしなければならない」という主張は当初から
よって立つ場所がなかったわけだ。

■韓国の民主化とあいまった謝罪


光復(解放)後の韓日関係年表(2) //ハンギョレ新聞社
1965年の韓日協定以後、韓国は日本から資金と技術を受け入れて高度成長の
軌道に入る。
1980年代中盤頃まで日本社会が韓国について抱いていたイメージは
“独裁”と“キーセン観光”に象徴される暗く不潔なものだった。
 韓国民主統一連合(韓民統)関連スパイでっち上げ事件で獄苦を体験した
在日朝鮮人のキム・チョンサ「在日韓国人良心犯の再審無罪と原状回復を
勝ち取る集い」理事長は、「当時、民族差別で種々の内的苦痛を味わっている
私の目にもキム・ジハのような立派な詩人を刑務所に閉じ込めた韓国の
独裁政権は容赦できないという思いがあった」と話した。
このような社会的雰囲気の中で1973年8月、中央情報部による
金大中(キム・デジュン)拉致事件が発生する。 これを契機に日本社会で
韓国の民主化運動を支援する活動が始まり、これは1987年6月の韓国民主化以後に洪水のように出始めた慰安婦問題などの戦後補償闘争を支援する流れに続く。

このような社会変化が呼び起こした韓日間歴史認識に関連した最初の成果は、
日本が戦後50年を迎えて1995年に出した「村山談話」だった。
村山談話は「日本は国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して
多大の損害と苦痛を与えました。
歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、
心からのお詫びの気持ちを表明いたします」という内容で構成されている。
村山談話の歴史認識は、1998年10月金大中大統領と小渕恵三首相が発表した
「韓日パートナーシップ宣言」では対象が“アジア諸国”から“韓国”に
特定され、日本が韓国を強制併合して100年になった2010年の菅直人当時首相が
発表した「菅談話」では、植民支配が「韓国人の意思に反してなされた」と
いう一歩進んだ認識に発展した。

■認識の差を狭める粘り強い努力が必要

問題は今からだ。 韓国は国交正常化50周年をむかえて日本が菅談話からさらに
進展した歴史認識を示さなければならないと要求しているのに対し、
安倍政権は8月に公開する安倍談話で植民支配に対する謝罪と反省の表現を
事実上除くという立場を明らかにし対抗している。
多くの困難の中でも少しずつ差を狭めてきた両国間の歴史認識が後退する危機に立たされたわけだ。

両国の歴史認識差をどのように埋めるのか、に対する専門家たちの意見は
尖鋭に分かれている。

第一の主張は韓日協定改正論だ。これを主張する
キム・チャンロク慶北大法学専門大学院教授は「日韓基本条約2条は、
韓日歴史葛藤の最底辺に位置しているので、これを解消することこそが韓日の
過去清算の出発点だ。 時間がかかっても植民支配を“誤り”と明確に
位置づける新条約を推進しなければならない」と語る。

別の意見は協定補完論だ。イ・ウォンドク国民大教授は「外交は相手が
いるので、突然条約を覆すことは国際慣行から見れば途方もないことだ。
実際、韓日間の歴史認識は韓日協定の不足した部分を補完し、
多くの進化をしてきた。
韓国社会が安倍談話などに過度な意味付与をするのでなく、ポスト安倍まで
念頭に置いたもう少し息の長い視角でこの問題を見なければならない」と
指摘する。

いずれにせよ韓日両国は、現在置かれている危機を克服して友好関係を
増進しなければならない。
そのために必要なことは、両国間の歴史認識の差を狭めるための両国社会の
粘り強い努力だ。
太田修・同志社大教授(日韓協定文書の全面公開を要求する会共同代表)も
「2条問題は日本で革命が起きない限り改正が難しい問題だ。
韓国と日本の市民社会が、安倍談話がどうなるかに関係なく、村山談話などで
出てきた歴史認識を一層発展させ、具体化した歴史認識を共有できるように
継続的に努力しなければならない。
そのためには記憶を巡る長期間にわたる執ようで綿密な戦いを
しなければならないだろう」と話した。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2015-06-03 10:17
http://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/694025.html 訳J.S(4320字)

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