2015年9月13日日曜日

【コラム】世界史の中の韓国独立運動

真実の歴史にいくら、山吹色を塗りたくっても歴史の塗装作業でしかない。
こう云う記事を見るとこの民族、意識は無く無意識何だなと・・分る・・?
   
【コラム】世界史の中の韓国独立運動

第1次世界大戦の直前、西欧の社会主義者には大層勢いがあった。
社会主義者は、1889年にパリで開かれた国際労働者会議で、5月1日を
「労働節」にすると宣言した。
産業革命でいち早く覇権国に変貌していた英国・フランスと、
後発ランナーだったドイツとの間に戦雲がたなびき始めると、1907年に
ドイツのシュツットガルト大会で、社会主義者は反戦運動に乗り出すと
決議した。
議会投票からゼネスト、果ては武装抗争に至るまで、戦争を防ぐ案は
さまざまだったが、いずれにしても社会主義者は
「先頭に立って戦争を防ぐ」と壮語した。
当時の西欧社会主義者の国際組織を「第2インターナショナル」と呼ぶ。
マルクスが主導した「第1インターナショナル」の後身、という意味だ。

ところが、肝心の「審判の日」が来ると、社会主義者は無気力なだけだった。
フランス社会党を率いていたジャン・ジョレスが1914年7月、29歳の
青年国粋主義者に暗殺された。この事件で、
フランスの反戦運動は求心点を失った。さらに劇的な展開があったのは、
ドイツだった。
帝国議会の議席の27.7%を占めていたドイツ社民党は、当初の戦争反対決議を
覆し、1914年8月に戦争国債法案を承認した。
主な支持層だった労働者の間にも戦争を支持する傾向が広まり、社会主義の
理念は何も力を発揮できなかった。結局、第1次大戦が始まると
「第2インターナショナル」はばらばらになった。

100年前の西欧社会主義の話を持ち出したのは、当時の欧州情勢が
大韓民国臨時政府の歴史と直結しているからだ。
1919年、三・一運動の熱気の中で誕生した臨時政府は、国際社会の承認を
得るため、パリ講和会議に代表団を派遣した。ところが第1次大戦の直後、
戦勝国中心の冷静な国際秩序の中で、日本の妨害により臨時政府の
努力は成功しなかった。

パリで苦杯をなめた後、臨時政府が訪れたのは、スイスのルツェルンだった。
当時スイスでは、戦争直後の西欧社会主義者が国際組織の再建を模索していた。しかしこの会合は、反戦と平和という大義に背いた
「蕩児(とうじ)」たちの「遅き悔い改め」のようでもあった。
結局社会主義者は、特に力を発揮できないまま、わずか2-3年後には
跡形もなく消え去った。
既に国際共産主義の主導権は、レーニンが主導する
「第3インターナショナル」に移った後だった。

最近、韓国の学界の一部では、1919年にルツェルンで西欧社会主義者が
臨時政府を承認していた関連文書を見つけ出し、喜んでいる。しかし、
このニュースに接してうれしさよりもほろ苦さの方が先立つのは、
世界史的な流れを度外視したまま、韓国の立場だけを一方的に掲げていると
いう、歴史的な異物感があるからだ。

国際的な承認を得るため苦労した臨時政府の外交的努力について、評価を
下方修正する必要はない。一方、
「戻ってきた蕩児」が臨時政府を承認したかどうかにすがりつかねば
ならないほど、韓国の独立運動史が貧弱だったわけでもない。
世界史の流れを立体的に見ないまま、自国の価値だけを強調したら、場合に
よっては歴史の脚注を真理であるかのように祭り上げる愚を犯しかねない。
大切だからこそ、冷静な判断が必要なときもあるというものだ。
だから歴史は難しい。

キム・ソンヒョン文化部次長 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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