日帝に奪われたのではなく、投げ出したのだ、父親や、祖父や、先祖が
やらかした愚かな決断を日本のせいにしたいだろうが、それは歴史が証明して
いる。
これは南も北も同族同士の体制、思想の争いだがこれが多民族との争いならば
韓国・朝鮮人はおそらく国を捨てたに違いない・・・・ww ww
【中央時評】運命の瞬間に近づく大韓民国(1)
2016年02月17日09時58分 [中央日報/中央日報日本語版]
20世紀は進軍の時代だった。
さまざまな国が革命で封建を終わらせ、近代化を成し遂げた。
この華やかな変化の時期に、韓民族は機会を逃した。日帝に国を奪われたのだ。
1945年に解放されたが韓民族は再び不幸を迎えた。
分断という歴史の天刑だ。分断の克服でも韓民族は立ち遅れている。
ドイツは50年も経たない内に統一をやり遂げた。韓国のような分断国において
統一は一義的な課題でなければならない。指導者は何としても統一に向かって
国家を押し進めなければならない。
統一は近代化の遅延を挽回する歴史の縮地法だ。
統一を宿題として見れば政権ごとに環境が違っていた。しかし
重要なことは自身の持分をやり遂げることだ。
統一の旅程は400メートルリレーのようなものだ。全力で疾走して次の走者に
バトン(baton)を譲り渡すことだ。走者ごとに
「私がウサイン・ボルト」と決心しなければならない。それでこそ統一が早まる。
48年の建国以来、韓国には10人の走者がいた。誰がはやくて誰が遅れたか。
北朝鮮という課題に最もすさまじくぶつかったのは
李承晩(イ・スンマン)大統領だ。彼は執権前から共産勢力と戦い、執権後は
戦争まで行った。彼は北進統一を望んだが、中国共産軍の参戦によって失敗した。代わりに彼は強力な韓米同盟で赤化統一を防いだ。
統一というのは結局、圧倒的な経済力で韓国の自由民主体制が北朝鮮共産体制を
吸収するということだろう。
そうした点で最も丈夫に基盤を固めたのは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領だ。
彼の任期中に韓国はいよいよ北朝鮮を追い越した。
対北朝鮮の報復の決起もすごかった。
73年に北朝鮮が挑発するとすぐにパク・ジョンイン白骨部隊長は砲撃で
北朝鮮の陣地を破壊してしまった。
76年北朝鮮が板門店(パンムンジョム)の斧蛮行(ポプラ事件)を犯すと、
朴正煕と米国は問題のポプラの 木を切ってしまった。
混乱の中で執権した全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領は
現状維持に固執した。テロにあっても報復しなかった。
南北の特使交換があったが意味ある進展ではなかった。
全大統領は韓国・北朝鮮よりも自身の政権管理に主に力を
注がなければならなかった。
盧泰愚(ノ・テウ)大統領は東欧共産圏の没落とドイツ統一という好材料に
会った。彼は北方外交で北朝鮮を包囲した。しかし
北朝鮮はハリネズミのように縮こまった。南北首相会談と基本合意書があったが
結局は核開発を隠す偽装戦術だった。
【中央時評】運命の瞬間に近づく大韓民国(2)
金泳三(キム・ヨンサム、YS)大統領は北朝鮮に純真に接近して失敗した
初めての指導者だ。彼は北朝鮮に友好的な要人2人を核心要職に座らせた。
就任の辞では「どの同盟国も、民族より良くはなれない」と述べた。
非転向の長期囚を何の条件もなく北に引き渡すこともした。YSの生半可な
対北朝鮮政策は、苛酷な代価を払った。北朝鮮が核開発を宣言したのだ。
金大中(キム・デジュン、DJ)大統領は北朝鮮の変化を圧迫できる
絶好の機会を迎えた。
94~96年に北朝鮮が「苦難の行軍」という崖っぷち危機に処したのだ。
もしDJ政権が北朝鮮の切迫ぶりを狙ったいたら韓半島(朝鮮半島)の運命は
変わったかもしれない。DJは
代わりに太陽政策を選択した。
首脳会談の支援金で4億5000万ドルを与えた。このお金は核開発に
使われた可能性が大きい。金正日にとって太陽の光は酸素呼吸器であった。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は北朝鮮の核開発に対する警戒心を低くした。
コメ・肥料・現金が北朝鮮に流れて続けた。
対話は偽装だったし、北朝鮮は核挑発へと向かった。2006年、いよいよ
北朝鮮は核実験に成功した。
李明博(イ・ミョンバク)大統領の対北朝鮮政策は相対的に厳格なものだった。
彼も初めは対北朝鮮交渉の誘惑に落ちた。しかし彼はまもなく軌道に戻った。
5・24措置は80年代以降、韓国が主導的に振り回した最初のムチだ。だが
李大統領にも限界があった。
韓国哨戒艦「天安」と延坪島(ヨンピョンド)挑発に対して彼がさらに強力に
懲らしめていたとすれば、北朝鮮政権は衝撃を受けたかもしれない。
長期独裁の共産政権は衝撃があってこそ急変の端緒ができる。
朴槿恵(パク・クネ)大統領も執権初めには南北対話の可能性に執着した。
韓半島信頼プロセスがそれだ。しかし彼女もまもなく冷厳な現実に戻った。
北朝鮮が彼女をそのようにしたのだ。
負担と犠牲で見れば開城(ケソン)工業団地の閉鎖は5・24よりも
強力な制裁だ。
今や北朝鮮という悲劇は最終章に向かって走っている。
金正恩は恐怖と狂気に閉じ込められ、韓国はすべての門を閉めた。
今こそ体制の本質と本質がぶつかっている。本質と本質が出会う時に変化が
さく烈したことを世界史は証明している。
1871年のドイツ統一の主役ビスマルクはこのように言った。
「歴史の中をすぎていく神の裾を逃さずにつかむことが政治家の責務だ」。
この国の多くの大統領が裾を取り逃した。
朴槿恵はそれをつかむことができるだろうか。
400メートル統一リレーで彼女はウサイン・ボルトになるだろうか。
キム・ジン論説委員
やらかした愚かな決断を日本のせいにしたいだろうが、それは歴史が証明して
いる。
これは南も北も同族同士の体制、思想の争いだがこれが多民族との争いならば
韓国・朝鮮人はおそらく国を捨てたに違いない・・・・ww ww
【中央時評】運命の瞬間に近づく大韓民国(1)
2016年02月17日09時58分 [中央日報/中央日報日本語版]
20世紀は進軍の時代だった。
さまざまな国が革命で封建を終わらせ、近代化を成し遂げた。
この華やかな変化の時期に、韓民族は機会を逃した。日帝に国を奪われたのだ。
1945年に解放されたが韓民族は再び不幸を迎えた。
分断という歴史の天刑だ。分断の克服でも韓民族は立ち遅れている。
ドイツは50年も経たない内に統一をやり遂げた。韓国のような分断国において
統一は一義的な課題でなければならない。指導者は何としても統一に向かって
国家を押し進めなければならない。
統一は近代化の遅延を挽回する歴史の縮地法だ。
統一を宿題として見れば政権ごとに環境が違っていた。しかし
重要なことは自身の持分をやり遂げることだ。
統一の旅程は400メートルリレーのようなものだ。全力で疾走して次の走者に
バトン(baton)を譲り渡すことだ。走者ごとに
「私がウサイン・ボルト」と決心しなければならない。それでこそ統一が早まる。
48年の建国以来、韓国には10人の走者がいた。誰がはやくて誰が遅れたか。
北朝鮮という課題に最もすさまじくぶつかったのは
李承晩(イ・スンマン)大統領だ。彼は執権前から共産勢力と戦い、執権後は
戦争まで行った。彼は北進統一を望んだが、中国共産軍の参戦によって失敗した。代わりに彼は強力な韓米同盟で赤化統一を防いだ。
統一というのは結局、圧倒的な経済力で韓国の自由民主体制が北朝鮮共産体制を
吸収するということだろう。
そうした点で最も丈夫に基盤を固めたのは朴正煕(パク・チョンヒ)大統領だ。
彼の任期中に韓国はいよいよ北朝鮮を追い越した。
対北朝鮮の報復の決起もすごかった。
73年に北朝鮮が挑発するとすぐにパク・ジョンイン白骨部隊長は砲撃で
北朝鮮の陣地を破壊してしまった。
76年北朝鮮が板門店(パンムンジョム)の斧蛮行(ポプラ事件)を犯すと、
朴正煕と米国は問題のポプラの 木を切ってしまった。
混乱の中で執権した全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領は
現状維持に固執した。テロにあっても報復しなかった。
南北の特使交換があったが意味ある進展ではなかった。
全大統領は韓国・北朝鮮よりも自身の政権管理に主に力を
注がなければならなかった。
盧泰愚(ノ・テウ)大統領は東欧共産圏の没落とドイツ統一という好材料に
会った。彼は北方外交で北朝鮮を包囲した。しかし
北朝鮮はハリネズミのように縮こまった。南北首相会談と基本合意書があったが
結局は核開発を隠す偽装戦術だった。
【中央時評】運命の瞬間に近づく大韓民国(2)
金泳三(キム・ヨンサム、YS)大統領は北朝鮮に純真に接近して失敗した
初めての指導者だ。彼は北朝鮮に友好的な要人2人を核心要職に座らせた。
就任の辞では「どの同盟国も、民族より良くはなれない」と述べた。
非転向の長期囚を何の条件もなく北に引き渡すこともした。YSの生半可な
対北朝鮮政策は、苛酷な代価を払った。北朝鮮が核開発を宣言したのだ。
金大中(キム・デジュン、DJ)大統領は北朝鮮の変化を圧迫できる
絶好の機会を迎えた。
94~96年に北朝鮮が「苦難の行軍」という崖っぷち危機に処したのだ。
もしDJ政権が北朝鮮の切迫ぶりを狙ったいたら韓半島(朝鮮半島)の運命は
変わったかもしれない。DJは
代わりに太陽政策を選択した。
首脳会談の支援金で4億5000万ドルを与えた。このお金は核開発に
使われた可能性が大きい。金正日にとって太陽の光は酸素呼吸器であった。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は北朝鮮の核開発に対する警戒心を低くした。
コメ・肥料・現金が北朝鮮に流れて続けた。
対話は偽装だったし、北朝鮮は核挑発へと向かった。2006年、いよいよ
北朝鮮は核実験に成功した。
李明博(イ・ミョンバク)大統領の対北朝鮮政策は相対的に厳格なものだった。
彼も初めは対北朝鮮交渉の誘惑に落ちた。しかし彼はまもなく軌道に戻った。
5・24措置は80年代以降、韓国が主導的に振り回した最初のムチだ。だが
李大統領にも限界があった。
韓国哨戒艦「天安」と延坪島(ヨンピョンド)挑発に対して彼がさらに強力に
懲らしめていたとすれば、北朝鮮政権は衝撃を受けたかもしれない。
長期独裁の共産政権は衝撃があってこそ急変の端緒ができる。
朴槿恵(パク・クネ)大統領も執権初めには南北対話の可能性に執着した。
韓半島信頼プロセスがそれだ。しかし彼女もまもなく冷厳な現実に戻った。
北朝鮮が彼女をそのようにしたのだ。
負担と犠牲で見れば開城(ケソン)工業団地の閉鎖は5・24よりも
強力な制裁だ。
今や北朝鮮という悲劇は最終章に向かって走っている。
金正恩は恐怖と狂気に閉じ込められ、韓国はすべての門を閉めた。
今こそ体制の本質と本質がぶつかっている。本質と本質が出会う時に変化が
さく烈したことを世界史は証明している。
1871年のドイツ統一の主役ビスマルクはこのように言った。
「歴史の中をすぎていく神の裾を逃さずにつかむことが政治家の責務だ」。
この国の多くの大統領が裾を取り逃した。
朴槿恵はそれをつかむことができるだろうか。
400メートル統一リレーで彼女はウサイン・ボルトになるだろうか。
キム・ジン論説委員
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