2016年8月3日水曜日

時節柄、朝鮮戦争の英雄の話

今日は8月3日だけど、戦争勃発から一か月と、8日だ、釜山追い込まれ
壊滅寸前だ~~
李承晩が「ソウルを守る」と大ホラ吹いて逃げ、釜山に追い込まれ日本まで
逃げようとしたんだよな・・・・
今度は反対にピョンヤンが陥落した時には北の金日成も北京に逃げたんだよな
しかし、北の戦車この間の軍事パレードに動いていたよ・・  もう、
60年だろう

【軍事ワールド】
戦争の英雄などいなかった…韓国軍「偽りの歴史」 
教科書に載るヒーロー、実は逃亡兵

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北朝鮮軍が主力としたT-34/85戦車。朝鮮戦争が始まったとき、
韓国軍にはT-34に対する有効な対戦車兵器はほとんどなかった
(岡田敏彦撮影)

韓国で「戦争の英雄」の戦果が偽物だったとの証言が飛び出し、物議を
かもしている。
朝鮮戦争勃発時の1950年に、火炎瓶を手に命がけで北朝鮮軍戦車を
破壊したとして「国の英雄」に認定されていた小隊長が、実は戦わずに
敵前逃亡していたというのだ。(岡田敏彦)

実は逃げていた

焦点となっているのは“英雄”のシム・イル小隊長。その「功績」は
1950年6月に始まった朝鮮戦争でのものだ。
開戦当初は戦車をほとんど持たない韓国軍に対し、北朝鮮が大量の
ソ連製T-34戦車で攻勢をかけたことから、韓国軍にとっては敵戦車の
破壊が最重要課題だった。
当時韓国にあった対戦車砲や小口径のバズーカ砲(無反動砲)では歯が
立たず、韓国軍は総崩れした。
この窮地に立ち向かったのがシム氏だ、というのが定説だった。

韓国KBSラジオ(電子版)などによると、シム氏は開戦当日の
6月25日、北朝鮮と国境を接する韓国北東部の江原道にある春川市で、
北朝鮮の「戦車型自走砲」10台あまりを発見。
対戦車砲部隊の小隊長だったシム氏は砲撃を開始するものの、命中した弾は
すべて戦車の装甲にはじかれた。そこで、
5人でチームを組んで手榴弾と火炎瓶で肉迫攻撃を行い、3台を撃破した-というのが、伝えられてきた「韓国の歴史」だった。

軍と国民の鑑として、かつては教科書にも載った英雄で、いまも公園や
陸軍学校に銅像が立っているという。

「自分の部隊の大砲を置き去りにして逃げた」と当時の上官が暴露

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ところが、こんな英雄譚は全て嘘だったとの証言が今年6月中旬に
明らかにされた。

朝鮮日報(電子版)によると、証言したのは当時、シム氏と同じ第7連隊の
隷下にあった第1大隊で中隊長だったイデ・ヨン予備役陸軍准将(91)だ。イデ氏は当時、シム小隊長が戦車の攻撃を受けて逃走したのを、自分の布
陣する高地から見ていたという。
「後退するのは仕方ないとしても、自分の部隊の大砲を置き去りにして
逃げたことは問題だった」。シム氏の上司にあたる中隊長は責任を問い、
小隊長だったシム氏は閑職の連絡員とされた。

情けが思わぬ方向へ

その後シム氏は作戦中に敵の攻撃で戦死したが、問題はこの後に始まった。

シム氏の親が軍部隊を尋ね、他の兄弟も戦死したと嘆き悲んだところ、
連隊長は同情し「勲章をやろう」と約束したのだ。

副官はシム氏の敵前逃亡を知っていて反対したが、新任の連隊長は
1939年の日本軍のノモンハンの戦いを例に出し、肉迫攻撃で戦車を
破壊することは不可能ではないとしたうえで、
「息子を失ったのだから勲章くらい渡してやれ」と怒鳴って反論を封じた。
こうしてシム氏に1951年10月「太極武功勲章」が授与された。

呆れるほど敵前逃亡繰り返す韓国軍には英雄が必要だった

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ここまでなら、「うそも方便」と言えなくもないのだが、後に国防部の
役人が軍の記録を整理中に、シム氏の受章理由を見て
「すごい英雄を発見した」と雑誌に紹介。もはや誰も「嘘でした」とは
言い出せなくなってしまった。

イデ氏は当時の真相を知る関係者と話し合い「シム氏の両親が亡くなった
あとで本当のことを話そう」と約束したが、シム氏の母は2005年に
100歳で死去。その時、軍側の関係者はイデ氏を除く全員が死去していた。「最終的には私に責任がある」として、イデ氏は「事実」を打ち明けたと
いうのだ。

背景には、朝鮮戦争の休戦から現在に至るまで、北朝鮮と韓国で続く
プロパガンダ合戦がある。朝鮮戦争時に国連軍総司令官だった
マシュー・リッジウェイ将軍が
「韓国軍の態度だけが私の悩みだった。
中国軍は韓国軍部隊を次々と敗走させ、そのたび韓国軍は補充困難で高価な
多数の(米国供与の)装備を放棄した」と自著で呆れるほど敵前逃亡が
繰り返された韓国軍。
休戦後に政府と軍を再建し、北朝鮮と対峙するうえで、勇敢に戦った
英雄が必要だったのだ。それが例え「作られた英雄」であっても。
こんな“架空戦記”は、韓国では珍しくない。

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モスキート

米軍の「バウト・ワン作戦」もその一例だ。韓国の“定説”では、
10人の英雄が登場する。
朝鮮戦争勃発時、創設されてまもない韓国空軍の選り抜きのパイロット
10人が、米国製の戦闘機を受け取るため日本の在日米軍基地に到着。
米軍の戦闘機(F-51マスタング)に乗るや韓国に向けて飛び立ち、その
足で朝鮮半島での地上攻撃に活躍した-というのだ。

一般的に戦闘機は機種ごとに操縦方法や機体のクセなどが違うので
「機種転換訓練」が必要になるが、韓国説では、10人は大日本帝国陸軍で
熟練パイロットだったので、機種の違いは問題とならなかったというものだ。なかには天候悪化のなか数日の訓練で操縦をマスターしたとの説もある。

 しかし、当時の米軍パイロットの回顧録によると事情は異なる。

朝鮮戦争の勃発で韓国に急派された米国空軍第18戦闘爆撃飛行隊の
デュアン・バイトマン中佐の記録によると、10人の韓国人パイロットは、
それまで米国製の練習機「T-6」で短期間訓練したに過ぎず、F-51を
空輸したのは米軍部隊だった。

「蚊」になった韓国軍パイロット

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韓国人パイロットのうち数人は強い希望でF-51に乗って地上攻撃に
出たものの、最初の出撃で対空砲火によって隊長機が墜とされ、米軍の
現地指揮官は「貴重な機体をこれ以上失うわけにはいかない」と判断。
そもそも米軍の判定では全員、操縦技量が未熟だと断じられていた。結局、
F-51には米空軍パイロットが搭乗することと決定。韓国軍パイロットは
「モスキートになった」とされている。

モスキートとは英語で「蚊」のこと。モスキートの名をつけた英国製の
双発戦闘機もあったが、ここではどちらの意味でもない。
朝鮮戦争で米軍のいうモスキートとは、米国製T-6練習機を改修した
観測機のことだ。記録によると、
地上攻撃に飛び立った米国人パイロットは、地上戦を行う北朝鮮陸軍と
韓国陸軍の見分けがつかず、どちらを攻撃すればいいのか判断に
迷うことがあったため、この識別を「モスキート」に乗った韓国兵に
任せたとしている。

とはいえ、韓国空軍パイロットが英語をほとんど解さないこと、また
米空軍戦力が増強されたことなどから、モスキート任務もわずかな期間で
終了した。その後
韓国軍パイロットたちは戦線後方の基地で長い訓練期間に入り、実戦に
でることはなかったという。

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