2016年12月10日土曜日

姫一族は青瓦台に呪われているの~か

弾劾審判は9人中6人が賛成ならば審判は受理されるとか、3人は姫が
任命したらしいが、昨日だったか、チェ・スンシルト大統領府の三人組が
毎日曜日に官邸で日本風すき焼きを食べて、土産に韓国海苔巻きを土産に
持って帰ったとか、然し、姫大統領は一度も一諸ではなかった~~と
だから、これが2013年2月~2014年かサンケイ新聞の、
ソウル支局長コラム事件ぐらいまで出入りしていていた訳~~か
   
【萬物相】朴槿恵大統領が青瓦台で失ったもの

朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は1974年当時、フランスの
グルノーブル大学に留学中だった。
友人たちと旅行していた8月のある日、下宿先から連絡が来た。
「急いで戻って下さい」。一人で汽車に乗って戻る間、ずっと胸騒ぎが
していた。
下宿先では、大使館の職員が待っていた。理由も説明せず
「これからソウルに行かなければ」と言った。
急いでシャルル・ド・ゴール空港に着いた朴槿恵は、新聞の売店で
母・陸英修(ユク・ヨンス)の写真を見た。
記事のヘッドラインは「暗殺」だった。
当時の状況を、朴槿恵はこう記録した。
「鋭い刃物が心臓を深々と刺したような痛みが押し寄せた」。

留学を中断した22歳の朴槿恵は、大統領府(青瓦台)に戻り、
ファーストレディーになった。
「気楽な生活、一個人としての自分の夢、その全てをなげうつことにした」と記した。
79年10月27日早朝、朴槿恵は電話のベルで目を覚ました。
服が血で染まった金桂元(キム・ゲウォン)秘書室長が、官邸の前に
ためらいがちに立っていた。
葬儀の後、朴槿恵は父・朴正煕(パク・チョンヒ)の血が付いたネクタイと
ワイシャツを洗いながら泣いた。5年前、
母の血で染まった韓服を洗った記憶が重なった。
朴槿恵は「誰かが私の背にあいくちを突き立てたとしても、あの時ほど
痛くはないだろう」と振り返った。

10・26(79年10月26日。朴正煕大統領〈当時〉暗殺)から1カ月後、
朴槿恵は妹の槿令(クンリョン)、弟の志晩(チマン)を連れて青瓦台を
出た。
27歳の「家長」だった。
父親に背を向けた世間や人々を見て、裏切りへのトラウマが生じたという。
育英財団の運営をめぐって槿令氏との対立も深まった。
世間から徐々に遠ざかっていった時期だった。

長い沈黙を破り、97年末に政界入りした朴槿恵は、保守政党の
「救援投手」役を務めた。
「選挙の女王」とも呼ばれた。2012年の大統領選挙で勝利した朴槿恵は、
34年ぶりに青瓦台へ戻り、感激を味わった。
朴槿恵は「幼いころスケートをした(青瓦台の)蓮池がなくなっていた」と
語ったという。しかし、
なくなったものは蓮池だけではなかった。
朴槿恵の初心も消えた。大統領の職務を忘れ、崔順実(チェ・スンシル)の
国政介入を防ぐことができなかった。

朴大統領が最も大切にしている肉親は、弟・志晩氏の長男だという。しかし
朴大統領は、志晩氏の家族を青瓦台に呼ばなかった。
知人には「歴代政権の親族による不正を見て、志晩夫婦を青瓦台に
寄せ付けないようにした」と語っていた。ところが、
親族ではない陰の実力者の国政介入は放置した。昨日、韓国の国会で
大統領弾劾訴追案が可決された。政界入りしてから18年。
父親の朴正煕・元大統領の統治期間が18年だった。
思わぬ形で両親を失い、自らも弾劾で権限が停止される大統領の姿を
見なければならない韓国国民の気持ちを、朴大統領は分かっているだろうか。

アン・ソクベ論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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