2019年2月24日日曜日

三・一運動記念式典会場の日本大使

歴史的事実に独立運動も独立抗争も無い事案で、ただ一つのこの
万歳運動を独立運動にしたいのはわかるが、ただのデモに過激派が
便乗し、扇動し暴徒化して商店やら日本人の警官やら
虐殺したのだろう。
日本の鎮圧部隊も鎮圧部隊に犠牲者がでれば、そりゃ最終判断
空砲だったのを実弾に変え最初の5人だけ射殺、暴徒は、
蜘蛛の子が散るようににげていったときく。
これが本当の歴史的事実。



【コラム】三・一運動記念式典会場の日本大使

▲李河遠(イ・ハウォン)東京特派員

金山政英。三・一独立運動100周年を前に韓日両国が鋭く対立する中、思い出される日本の外交官だ。
金山氏は第2代駐韓日本大使だった人物。
日本企業から浦項製鉄支援をはじめとする経済協力を引き出した
ことが業績に挙げられる。
没後は日本だけでなく韓国の坡州市にも彼の墓が作られた。

あまり知られていないことだが、金山氏は1969年の
三・一運動50周年記念式典に出席した。
韓日修好54年の歴史において、三・一節の行事に登場した唯一の
日本大使として記録されている。
72年に退職した金山氏は「玄界灘のかけ橋」と題した一文の中で
次のように回顧した。

「かつて、日本の官憲が犯したことは不幸にして悪いことで
あったのは間違いない。
日本の大使が韓国国民の感情を刺激することを恐れていつまでも
三・一節の記念式に出席しなければ、韓国政府と国民はこれをどう
受け止めるだろうか。
当時、意義深い記念式に出席したことは非常に幸いだった」。

朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、そんな金山大使に気を配った。
記念式典の会場で、日本に対する批判は最小限に抑えた。その代わり
「三・一運動は国を挙げての闘争だったにもかかわらず目標を
達成できなかったのは、国力が弱かったから」と、
国力培養に力を注ごうと強調した。

韓日両国が互いに配慮した歴史があったということが信じ難いほど、
昨今の韓日関係は急速に後退している。
特に日本では、このところ三・一運動100周年を巡り懸念する
雰囲気が強まっている。
植民地時代の徴用賠償判決、海上軍事対立、
文喜相(ムン・ヒサン)国会議長の「天皇謝罪」発言と
結合することで出現した新たな「空気」だ。
日本側は、韓国が今回の三・一節を契機に反日へ疾走するだろうと
懸念している。



しかし和田春樹・東京大学名誉教授の言う通り、日本側が
「己未年(つちのとひつじ年。1919年)独立運動」をきちんと
理解すれば、そう心配するほどのことではない。
三・一運動は、侵略国を非難するよりも説得し、両国が東洋平和の
ため共に進もうというものだった。
「朝鮮独立は(中略)日本をして邪路より出(い)でて
東洋支持者たるの重責を全うせしめんとするもの」という宣言文に、
その精神が十分要約されている。
宣言文の「公約三章」は「決して排他的感情に逸走すべからず」と
戒めた。

日本の懸念とは異なり、三・一運動100周年は、その精神をきちんと
生かせば、韓日関係の新たな分岐点を作ることができる。
安倍晋三首相と日本の政治家が、50年前の金山大使の決断を一度でも
熟考してみることを切に望む。
相手を排斥するより、心から日本を説得して共に進もうとしていた
三・一運動は、単に日本にのみ教訓を与えるものではないと思う。

李河遠(イ・ハウォン)東京特派員

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