2019年6月30日日曜日

人民軍統治下のソウル、地獄の3カ月

もう、何年になる来年で70年か、・・・この記事を書いてる間にトランプ大統領の
訪韓のニュースはとみれば、板門店で北の刈り上げが来てたんだ。
トランプ大統領が出て来いといえばすっぽかすわけにはいかない。
これも交渉・対話の継続で合意か、文大統領は得意そうではあったが、
明日で7月だ、李・スンマンはもうプサンまで逃げてたか。



 人民軍統治下のソウル、地獄の3カ月

1950年6月28日、夜中の雨は降ったりやんだりしていたが、大砲の音はやむことが
なかった。
夜明けを迎えるころ、戦闘はますます激しさを増し、大砲の音と銃声がまるで豆でも
炒めたかのように聞こえてきた。しばしばそう遠くないところから悲鳴も聞こえた。
もう市街戦が始まったようだ--。
ある方が送ってくれた本を放置したままだったが、6月になって義務感に駆られるように
読了した。
6.25(朝鮮戦争)当時の金聖七(キム・ソンチル)ソウル大史学科教授の日記を集めた
本「歴史の前で-ある史学者の6・25日記」だ。

ソウル市の貞陵に住んでいた金教授はソウル市民の大半と同様、疎開することが
できないまま、人民軍統治下のソウルで3カ月を過ごさなければならなかった。
その日記には人民軍統治下のソウルの実情がありのままに書かれている。

「弥阿里(ミアリ)峠を車よりも大きいものがゆっくりと下りてくる。
大砲が当たってもびくともしないという北の戦車ではないか。
敦岩洞の通りにはおかしな軍服を着た軍人たちが隊列を組んで行進している。
世の中はひっくり返ってしまった。
我々は否応なく一夜のうちに大韓民国ではない別の国の庶民になってしまったのだ」

金教授の日記によると、南侵3日目の6月28日、既にソウルの通りでは赤旗を振り、
万歳を叫ぶ人々が現れた。
金教授は「その中には前日まで(右派の)大韓青年団の腕章を付けていた青年もいた」と書いた。
学校に人共旗(北朝鮮国旗)がはためき、7月初めには各家庭に人共旗が掲げられ、
塀には「人民共和国万歳」
「英明な金日成(キム・イルソン)将軍万歳」
「スターリン大元帥万歳」といった壁新聞が張られた。
男女の学生らが人民共和国支持のデモを毎日のように行った。
大韓民国の長官、学者がラジオに出演し、「李承晩(イ・スンマン)逆徒」を非難した。




金教授は「自分も赤と青のインクで人共旗を描き始めた。
妻と見つめ合って笑った。
一朝一夕で別の国旗を描かなければならない状況だった」と書いた。そして、
「日帝時代(日本による植民地支配時代)にサランバン(家の主人の居間)の壁に
太極旗を描いて張り、幼い心を躍らせたことがあった。
その太極旗を破って焼き捨てた母のほおに二筋の涙が流れ、自分はその夜、巡査に
首筋をつかまれる夢で目が覚めた」と振り返った。
多くの市民がそんな太極旗を捨て、別の国旗を描かなければならなかった。

金教授は人民軍がよく訓練されており、規律もあるように見えたという。
「家を出た兄弟が故郷を尋ねたようだった」とも書いた。しかし、時がたつにつれ、
彼らのたちの悪さ、残忍さ、容赦なさ、虚偽宣伝、扇動にうんざりした。
金教授は明倫洞での人民裁判の話を書いた。

「機関短銃を背負った人民軍が青年数人を連れてきて、群衆に向かって反動分子かと
尋ねた。
皆が呆気にとられる中、1-2人が悪質な反動分子だと言うと、容赦なく銃殺した」

金教授はこのころのソウルで最大の問題は食料不足と幼い学生の義勇軍動員、
一般市民の突然の「転出」だったという。
教室で誰かが「行こう」と言うと、誰も反対できずに結局戦場に送られた。
保護者は地団駄を踏むだけだった。
突然党の指示だといって、無計画に他地域に転出させられることもあった。
ほとんど死ねと言われるに等しい衝撃だった。
ソウル大教授は「過去の清算」だとして、「建設隊」に志願するよう求められた。

人民共和国はあらゆる改革とやらを実行した。
8時間労働制、性別・国籍不問の均一賃金制、労働保険制度、妊婦保険制度などだ。
実情は真逆で、ただの宣伝、扇動にすぎなかった。
ソウルの左派政党、左翼系新聞は自分たちの世の中が来たと思いきや、真っ先に
消え去った。勤労人民党は跡形もなく消え、教職員労組も解散させられた。

7月が過ぎ、ソウル市民の人民軍に対する評価は終わったようだ。
自らを「グレー分子」と呼んだ金教授は「米軍機がソウルを爆撃し、数多くの死傷者が
出ても人々は飛行機を待っている。
一種の希望を抱いている。軍や警察の家族ばかりがそれを望んでいるわけではない」と
書いた。
竜山に爆弾が落とされているのに、ある女性が屋根の上で米軍機に向かって
白いタオルを振ったという。
金教授を尋ねてきた仏文学の孫教授は「市民が大韓民国に対する忠誠心にこれほど
燃えたことはなかったのではないか。
人民共和国を経験し、骨身にしみて大韓民国が懐かしい」と言った。

9月16日には貞陵でもかすかに米軍と国軍による砲声が聞こえ始めた。金教授は
「あまりに強烈な期待で興奮して眠れなかった」と書いた。
21日には赤い腕章をした人々が荷物をまとめ始めた。
23日には弥阿里峠を北に向かう人が絶え間なかった。
28日には飢えたソウル市民が人民軍の軍需物資を略奪した。
10月6日、金教授はしまっておいた太極旗を再び掲げた。

しかし、戻ってきた国軍に対する金教授の評価は半分否定的だ。
「酒に酔っていた」という表現が多い。韓国政府と社会の腐敗に対する失望も
大きかった。
中共軍(中国軍)の介入でソウルを捨てて後退しながら惨状を目撃し、
「我が民族は今虫けらだ」と絶望した。しかし、
「国軍に入隊するために村を通過する数万名の青年は疲れてはいたが、目は新たな
生気に満ちていた。民族の希望が見える」と書いた。
日記はだいたいここまでだ。金教授は間もなく、故郷の慶尚北道永川で
暴漢の銃撃を受け命を落とした。

楊相勲(ヤン・サンフン) 主筆
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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