近・現代史に興味のある歴史好きの日本人なら誰もが知ってる事実がこれ米国の、
最後通牒・「ハルノート」だ。
ハル国務長官・日本は開戦するしか道はないと・・・
一個人日本人の私が考えるにこの時代日本は外交とともに、国家戦略でも米国に
敗れた。
当時もう独ソ戦ははじまっていたし、ホワイトハウスににはソ連とつながってた
内通者もいたと聞く、日本が米国と開戦すればソ連は背後の心配がなくなる。
米国も参戦すれば、戦後の世界指導権を握ることができる。
米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、叔父のセオドア大統領と違って
日本人を憎しみほど嫌っていたらしい。そしてもう一つ米国に教えてしまった!?
空母に戦闘爆撃機をのせる、「空母打撃群」の編成を
昭和天皇陛下・40歳~か
突きつけられた「ハルノート」 日本は立ち上がるしかなかった
2019.11.9
画=筑紫直弘
第173回 開戦前夜(1)
昭和天皇の意をくみ、日米交渉を一歩でも、いや半歩でも進めようと奔走した
駐米大使の野村吉三郎-。
だが、その結末はあまりに無残だった。
昭和16年10月18日に発足した東条英機内閣が日米交渉の土台として、
中国や仏印からの撤兵問題で日本が譲歩する「甲案」と、中国問題を棚上げして
暫定的に妥協する「乙案」をまとめたことは前回書いた。
外務省の訓令を受けた野村は11月7日、ハルと会談して甲案を提示。
「日本の内政上許す限りの最大の譲歩」と理解を求めたが、ハルは一般的な
平和原則を述べるにとどめた。
同月12日、ハルは野村に、甲案には何も触れず、平和政策実行の誓約などを求める
2通の文書を手交。15日には、列国共同で中国の経済開発を行うなどとする、
日本の政策と相容れない新提案を持ち出した上、日独伊三国同盟の死文化を
再三強調した。
17日、野村を補佐する特命大使の来栖(くるす)三郎が着任、会談に参加するが、
ハルは来栖を「初対面から嘘つきだと感じた」だけだった。
18日、米政府が開戦に傾いているとみた野村は決心し、乙案を提示する前に、
乙案よりさらに妥協した暫定協定の私案を示す。
しかしハルは取り合わず、東京からも野村の独断を批判され、20日、野村は改めて
乙案を手交した。
だが、アメリカは最初から、日本に1ミリも譲歩する気はなかったようだ。
25日、大統領のルーズベルトはホワイトハウスにハル、スチムソン(陸軍長官)、
ノックス(海軍長官)、マーシャル(参謀総長)、スターク(海軍作戦部長)の
5人を招集。そこで協議されたのは、スチムソンが日記に書いたように、
「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導して行くべきかということ」であった。
翌26日、ハルは野村と来栖に米政府の回答、いわゆる「ハルノート」を手交する。
日本に対し、
(1)中国と仏印からの全面的無条件撤兵
(2)満州国政府および汪兆銘政権の否認
(3)日独伊三国同盟の実質的廃棄-を求めるという、激烈過酷な内容だった。
× × ×
野村の戦いは終わった-。
交渉努力の一切を無視し、日本に一方的な敗北を迫るハルノートは、事実上の
最後通牒(つうちょう)とみていい。
先の大戦後、東京裁判で判事を務めたパールは、判決文にこう書いている。
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。
すなわち今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に
送ったものとおなじような通牒(ハルノート)を受取った場合、モナコ王国や
ルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいして戈(ほこ)をとって
起ちあがったであろう…」
野村に「ハルノート」を手交したハルは翌日、陸軍長官のスチムソンにこう
語ったという。
「私はもう交渉から手を引いたから、問題は君とノックス(海軍長官)の手に移った」
この時点でアメリカは、臨戦態勢に入ったといえよう。
日本は結局、アメリカの思惑通りに、開戦への道を歩まされたともいえる。
一方、日本側の交渉手法にも問題はあった。ハルは4月の段階で、
(1)あらゆる国家の領土保全
(2)内政不干渉
(3)通商上の機会均等
(4)太平洋での現状維持-の4原則を示していたが、それを野村がすぐには
外務省に伝えなかったため、日米双方に誤解が生じ、疑心暗鬼に陥ってしまった。
もっとも、日本が4原則をのめば事実上の敗北に近い結果となったに違いない。
当時の米国務省顧問、ハーバート・ファイスによれば、この4原則で米国務省は、
「日本に何でも好きなものを太平洋から引き出させるだろうと判断」していたからだ。
ハルの要求を受け入れれば日本はどうなるか-。ファイスは言う。
「人口過剰な島々からなる狭い地域で、はげしく忍耐強い労働によって乏しい
生活手段をかせぎながら平和に暮らすチャンスを与えられるだけであり、
平和的で秩序ある国々の仲間に戻り、その末席を許されるうえに何のプレミアムも
残念賞もない」
日本は、自存自衛のために、戦わざるをえなかったのだ--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
最後通牒・「ハルノート」だ。
ハル国務長官・日本は開戦するしか道はないと・・・
一個人日本人の私が考えるにこの時代日本は外交とともに、国家戦略でも米国に
敗れた。
当時もう独ソ戦ははじまっていたし、ホワイトハウスににはソ連とつながってた
内通者もいたと聞く、日本が米国と開戦すればソ連は背後の心配がなくなる。
米国も参戦すれば、戦後の世界指導権を握ることができる。
米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は、叔父のセオドア大統領と違って
日本人を憎しみほど嫌っていたらしい。そしてもう一つ米国に教えてしまった!?
空母に戦闘爆撃機をのせる、「空母打撃群」の編成を
昭和天皇陛下・40歳~か
突きつけられた「ハルノート」 日本は立ち上がるしかなかった
2019.11.9
画=筑紫直弘
第173回 開戦前夜(1)
昭和天皇の意をくみ、日米交渉を一歩でも、いや半歩でも進めようと奔走した
駐米大使の野村吉三郎-。
だが、その結末はあまりに無残だった。
昭和16年10月18日に発足した東条英機内閣が日米交渉の土台として、
中国や仏印からの撤兵問題で日本が譲歩する「甲案」と、中国問題を棚上げして
暫定的に妥協する「乙案」をまとめたことは前回書いた。
外務省の訓令を受けた野村は11月7日、ハルと会談して甲案を提示。
「日本の内政上許す限りの最大の譲歩」と理解を求めたが、ハルは一般的な
平和原則を述べるにとどめた。
同月12日、ハルは野村に、甲案には何も触れず、平和政策実行の誓約などを求める
2通の文書を手交。15日には、列国共同で中国の経済開発を行うなどとする、
日本の政策と相容れない新提案を持ち出した上、日独伊三国同盟の死文化を
再三強調した。
17日、野村を補佐する特命大使の来栖(くるす)三郎が着任、会談に参加するが、
ハルは来栖を「初対面から嘘つきだと感じた」だけだった。
18日、米政府が開戦に傾いているとみた野村は決心し、乙案を提示する前に、
乙案よりさらに妥協した暫定協定の私案を示す。
しかしハルは取り合わず、東京からも野村の独断を批判され、20日、野村は改めて
乙案を手交した。
だが、アメリカは最初から、日本に1ミリも譲歩する気はなかったようだ。
25日、大統領のルーズベルトはホワイトハウスにハル、スチムソン(陸軍長官)、
ノックス(海軍長官)、マーシャル(参謀総長)、スターク(海軍作戦部長)の
5人を招集。そこで協議されたのは、スチムソンが日記に書いたように、
「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導して行くべきかということ」であった。
翌26日、ハルは野村と来栖に米政府の回答、いわゆる「ハルノート」を手交する。
日本に対し、
(1)中国と仏印からの全面的無条件撤兵
(2)満州国政府および汪兆銘政権の否認
(3)日独伊三国同盟の実質的廃棄-を求めるという、激烈過酷な内容だった。
× × ×
野村の戦いは終わった-。
交渉努力の一切を無視し、日本に一方的な敗北を迫るハルノートは、事実上の
最後通牒(つうちょう)とみていい。
先の大戦後、東京裁判で判事を務めたパールは、判決文にこう書いている。
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。
すなわち今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に
送ったものとおなじような通牒(ハルノート)を受取った場合、モナコ王国や
ルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいして戈(ほこ)をとって
起ちあがったであろう…」
野村に「ハルノート」を手交したハルは翌日、陸軍長官のスチムソンにこう
語ったという。
「私はもう交渉から手を引いたから、問題は君とノックス(海軍長官)の手に移った」
この時点でアメリカは、臨戦態勢に入ったといえよう。
日本は結局、アメリカの思惑通りに、開戦への道を歩まされたともいえる。
一方、日本側の交渉手法にも問題はあった。ハルは4月の段階で、
(1)あらゆる国家の領土保全
(2)内政不干渉
(3)通商上の機会均等
(4)太平洋での現状維持-の4原則を示していたが、それを野村がすぐには
外務省に伝えなかったため、日米双方に誤解が生じ、疑心暗鬼に陥ってしまった。
もっとも、日本が4原則をのめば事実上の敗北に近い結果となったに違いない。
当時の米国務省顧問、ハーバート・ファイスによれば、この4原則で米国務省は、
「日本に何でも好きなものを太平洋から引き出させるだろうと判断」していたからだ。
ハルの要求を受け入れれば日本はどうなるか-。ファイスは言う。
「人口過剰な島々からなる狭い地域で、はげしく忍耐強い労働によって乏しい
生活手段をかせぎながら平和に暮らすチャンスを与えられるだけであり、
平和的で秩序ある国々の仲間に戻り、その末席を許されるうえに何のプレミアムも
残念賞もない」
日本は、自存自衛のために、戦わざるをえなかったのだ--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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