2014年11月4日火曜日

日本北方領土の現状

本来、北方四島と千島列島は条約による厳然たる日本領、互いの国が如何なる
事情があろうとも、条約は条約。 だが
其れを無視できるのが戦争、ロシア人は太平洋に執着が強い、敗戦濃くなった
日本から樺太、千島を取り戻すため条約も無視、無視の侵攻が歴史の真実。
日本は歴史を継続するが、ロシア人、ロシア共産主義者、まあ共産主義者は
すべからず歴史の継続など無視、日本は交渉を継続に執念を示すべし。

「千島・南樺太は日本領」 
ソ連結成時1959年作成の地図で明記 ポーツマス条約の有効性認める
(1/3ページ)

ソ連内務省が1959年に作成したソ連誕生当時(22年)の領土を表す地図が
見つかり、千島列島と南樺太は日本の領土と記されていた。
ソ連は戦前から、日ソ基本条約で認めたポーツマス条約を事実上否認して
南樺太、千島樺太交換条約で日本に帰属していた千島の返還を主張していたが、
地図ではポーツマス条約の有効性を認めていたことになる。(編集委員 岡部伸)

地図はオランダ大使などを務めた大鷹正氏が外務省ソ連課勤務だった60年、
日ソ漁業交渉でモスクワを訪問した際に市内の書店で購入したもの。

地図は、ソ連内務省測地・地図整備総局学術編集地図作製部が54年に原案を
作成、59年に同局リガ地図製作所で1万部を製作、
「世界の政治地図」として販売された。その一部
「ソ連結成時の地図」は、ソビエト政権が誕生した22年当時の連邦を構成した
ロシアソビエト社会主義共和国をはじめとする各共和国の境界や、近隣諸国の
国境線を描いている。

反革命派のザバイカル政権が誕生し、日本などが出兵した極東シベリアは
極東共和国で、領土はウラジオストクから北樺太までで、
境界線を隔て南樺太と千島列島は日本とされている。

一方、第二次大戦直前に侵攻して併合する係争地のフィンランドのカレリア地方は
「カレリア労働コミューン」(20年6月8日)と書かれ、独ソ不可侵条約の
秘密議定書で40年に併合するバルト三国とポーランドはソ連領と記されていない。

ソ連は59年当時、参戦前のソ連結成時点では北方四島を明白に日本領と
認めていたことがうかがえる。

日本はソ連誕生から3年後の25年1月、北京でソ連を国家として承認、
日ソ基本条約を締結。この際ソ連はシベリア出兵した日本軍の撤退を確実、迅速に
するため、南樺太を割譲した日露戦争後のポーツマス条約の有効性を認めた。
しかし、同時に条約については、
「ソ連政府が政治的責任を帝政政府と分かち合うものではない」との声明も
発表している。

この声明通り、ソ連は40年に日本が不可侵条約を提案した際や41年4月の
中立条約締結時などで、ポーツマス条約に拘束されず、
南樺太と1875年の千島樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島列島の
返還を要求した。

ソ連の千島、南樺太に対する執着が大戦末期のヤルタ密約につながり、
中立条約を破った対日参戦で南樺太と千島列島を占領。北方領土問題は現在も
続いている。

プーチン政権は、北方領土領有の根拠を「大戦の結果」としているが、
スターリンは日本が降伏文書に調印した1945年9月2日の演説で、
「歴史に残した汚点を40年間取り除こうと待っていた。南樺太と千島が
引き渡され、日本の侵略から防衛する基地となる」と語っている。

【用語解説】ポーツマス条約 明治38(1905)年9月アメリカのポーツマスでセオドア・ルーズベルト米大統領の仲介により結んだ日露戦争の講和条約。
樺太(サハリン)南半分の日本への割譲や、旅順・大連の租借権および長春以南の
鉄道(南満州鉄道)と付属の利権(炭鉱の採掘権など)の譲渡、
日本の朝鮮半島における権益の承認などを決めた。

0 件のコメント:

コメントを投稿