2016年8月23日火曜日

今日の歴史、李朝最後の皇女~~~?

李朝が519年だって、世界に500年を超える王朝など沢山ある~よ。
まずこんな処かファンタジーだわ、この記事を読んでて、あの
「ファッビョン」って韓国語で韓国・朝鮮人の特異な民族病、「総鬱火病」の
事とは初めて知った~わ
日本でのYOUTUBEや2ちゃんねるなんぞで韓国・朝鮮人を揶揄する時
使われるわ~な・・・・・・

今日の歴史(8月23日)
2016/08/23 00:00文字拡大  文字縮小  印刷 twitter  facebook

1911年:朝鮮教育令を公布
1944年:日本が女子挺身隊勤務令を公布施行
1960年:第2共和国の初代首相、張勉(チャン・ミョン)内閣スタート
1971年:黄海に浮かぶ実尾島に駐留する特殊部隊員24人が仁川で
            バスを奪いソウルへの侵入を図った末に自爆
1973年:慶州155号の古墳で天馬図を発見
1986年:昌慶宮の文政殿を復元・改築
1999年:中国・北京で韓中国防会談を開催、朝鮮戦争後初
2001年:金大中(キム・デジュン)大統領がベトナムの
            チャン・ドゥック・ルオン国家主席と首脳会談し共同声明を発表
2008年:北京五輪の野球で韓国が初の金メダル獲得
2009年:金大中(キム・デジュン)元大統領の国葬を挙行

義親王の上海臨時政府亡命が成功していれば
大韓帝国は続いていたかもしれない(1)
2016年08月22日11時40分 [中央SUNDAY/中央日報日本語版]

李錫総裁が17日、全州韓屋村(チョンジュ・ハノクマウル)にある
「皇孫の家」承光斎を後にしている。
「なぜ朝鮮がこのように力なく滅びたのでしょうか? 
祖父の高宗(コジョン)皇帝を親日派が『無能な国王』と呼びました。
それが第一の理由です。
このことで王朝はかなり格を下げられてしまいました。世界に519年も
続く王朝の歴史を持つ国はありません。
このことが忘れ去られようとしています」。

高宗を「祖父」、興宣(フンソン)大院君を「曽祖父」と呼ぶ朝鮮の
「最後の皇孫」李錫(イ・ソク)社団法人「皇室文化財団」総裁(75)の
言葉だ。李総裁は高宗の5人目の息子・義親王の12男9女の11男だ。
高宗のもとに産まれた9男4女のうち、成人まで育った子供は
純宗(スンジョン)と1907年に皇太子に封じられた
英親王、義親王、徳恵翁主の3男1女のみだ。
高宗の一人娘であり「最後の皇女」だった徳恵翁主は李総裁の叔母にあたる。

映画『徳恵翁主』に対する歴史美化議論が広がるなかで、今月17日、
全羅北道全州(チョルラブクド・チョンジュ)の韓屋村(ハノクマウル)に
ある「皇孫の家」承光斎で李総裁と会った。
承光斎は1897年、大韓帝国を宣言した高宗皇帝時代の年号である
光武から「光」を取り、つなぐという意味の「承」を合わせ
「高宗皇帝の意志を継承する家」という意味を持つ。
李総裁はこの日、猛暑にもかかわらず伝統の韓服姿で文化探訪客に
「朝鮮王朝519年」について熱弁を振るっていた。

英親王と徳恵翁主のおいである李総裁は先月30日、ソウルのある映画館で
『徳恵翁主』を観覧した。試写会に先立ち、李総裁は
京畿道南楊州市(キョンギド・ナムヤンジュシ)の洪裕陵(ホンユルン)に
ある父親の義親王と徳恵翁主の墓参りをした。
「8月15日が父の祭事なので前もって墓参りをしました。
叔母の徳恵翁主の墓地が(義親王の墓から)10メートルも離れていません。そこでチョル(敬意を示すお辞儀)をして報告をしました」。

権丕暎(クォン・ビヨン)の小説『朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主』を
原作にした映画『徳恵翁主』は19日基準の累積観客数が444万人を
突破し、興行は順調だ。だが、
映画に自身の血縁が登場する李総裁の思いは一般の観客とは
違わざるをえない。しかも106年前、日帝によって大韓帝国が
滅びなかったなら、李総裁は2004年から自身が留まっている
495平方メートルの「民宿型韓国式家屋」承光斎ではなく、
43万2703平方メートルの「雄壮な宮廷」景福宮(キョンボックン)で
王族の一員として大韓帝国を治めていたかもしれなかった。

このような背景のためか、李総裁は立憲君主制改憲を主張した。
2006年8月に李総裁が創設した皇室文化財団は「朝鮮皇室復元運動」も
行っている。最近では、全国で復元運動を支持する「独立軍」も
1万人余り集めたという。次は李総裁との一問一答。

  --映画を見た感想は。

「私は映画『徳恵翁主』を作ったホ・ジノ監督と撮影前に会って
おくべきだったと思いました。悲しく滅びた王朝なので何か特別な
感じがあるべきなのに、映画はフュージョン料理のようなスタイルです。
歴史を正確に知ってから映画を作るべきだったのに。叔父の英親王も
上海臨時政府に行く機会がありました。それも曖昧にして省いています。
徳恵翁主もみじめに対馬島主と強制結婚させられたが初夜からむちで
打たれたと聞きました。
傲慢だということで。だから後年は精神錯乱に認知症まで患って
亡くなりました。観客にある感情を与えるためには深くしっかりと
歴史を勉強をした後に映画を撮るべきではなかったかと考えます」

  --徳恵翁主は実際にはどんな人だったのか。

「女性として何というか、魅力のある方です。高宗皇帝にとって
(徳恵翁主は)高齢のときにできた子供です。六十になる
時だったでしょうか。
あどけない言葉や仕草をよく見せていたとのことです。
昌徳宮(チャンドックン)で彼女のかわいらしい仕草を見た高宗皇帝は
ストレスをみな忘れたといいます。
日本は勉強の名目で徳恵翁主と英親王を日本に連れて行きましたが、
学校が休みの時でも帰しませんでした。
英親王を産んだ厳妃(オムビ)も火病(ファッピョン、一種の精神疾患)で
亡くなりました。本当に残念な歴史です」(中央SUNDAY第493号)

--映画では英親王が上海に亡命しようとしたと描かれている。
この部分が事実とは違うといって論争になっている。このことはどう思うか。

「日本が朝鮮への侵略の色合いを薄めるために
英親王を方子(李方子)王妃と結婚させました。
英親王は欧州を歴訪して上海にも訪問する計画があったといいます。
ところで、そこには祖父の高宗皇帝が先に(フィアンセとして)決めた
英親王の王妃である閔甲完(ミン・ガプワン)女史が来ていました。
そういうところも実に素晴らしかったのに映画ではそれが描かれなかった。
そういうところがやや残念でした」

  --もし上海の亡命が成功していれば王室が独立運動を主導しただろうか。

「そうしたでしょうね。父(義親王)は1919年11月に上海に亡命を
しようとしていました。
しかしその途中、新義州(シンウィジュ)安東(アンドン)駅の列車の中で
日本の警察に捕まってしまいました。もしその時、
英親王が上海の臨時政府にいて父が亡命に成功をしていれば大韓帝国が
続いていたでしょう」(義親王は亡命に失敗した後、12年間昌徳宮で
監禁状態で過ごした。)

  --兄の李ウ(義親王の次男)に対する思い出は。

「兄は非常に民族意識が強い方でした。それで日本の軍人になっても
日本語が使わないようにしていたそうです。部隊内でも。
精神病者と非難されながらも日本語を話さなかったそうです。
満州で独立軍の馬を密かに飼育していましたが日本が不審に思い日本に
転出させたのです。その一週間後に広島に原子爆弾が
落とされて亡くなりました。兄はまだ日本の靖国神社にいます」

  --故国に帰ってきた徳恵翁主はどのように生活していたか。

「その時は李方子王妃が生きておられたので昌徳宮の楽善斎の後にある
寿康斎の建物で暮らしていたそうです。
プクサン宮(グン)という老人1人がおられました。その方が徳恵翁主の
身の回りの世話をしていました。家族が徳恵翁主の周りに座ってチョルを
しても誰か分からないようでした。
空だけを見て。認知症だったうえに精神も錯乱していたので。そして
『おばさま』と言って手を握ると、涙をぽろぽろとこぼしていました。
徳恵翁主は李方子王妃が亡くなる一週間前に亡くなりました。それが
89年4月21日でした。
その時にはまともに話もできない状態でした。叔父の英親王もソウル
明洞(ミョンドン)聖母病院に7年おられて亡くなりました」
(中央SUNDAY第493号)

 --上海臨時政府に対して評価するとしたら。

「上海臨時政府を作った趣旨は良かったと思います。ところがそこには柱が
ありませんでした。その時、わが国には王室が明確にありました」

  --朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は王室に配慮していたか。

「朴大統領は私たちが暮らす七宮に生活費を与えました。その時、
李方子王妃が生きておられたので1カ月に1、2回ほど
青瓦台(チョンワデ、大統領府)で接待をしていたそうです。王室に
非常に関心がありました。
フランコ(1892~1975)総統が王政を作ったスペインに青瓦台の
職員が行って研究をしたという話も聞きました」

  --李承晩(イ・スンマン)大統領は王室の復活を牽制していたか。

「李大統領が政治的に英親王を近寄らせないようにしたのです。だが、
下に政治組織がないから親日派を連れて政治をしたのです。それで親日派が
歴史をわい曲させたのです。王朝を完全につぶしたのです」

  --現政権の韓日外交をどのように評価するか。

「慰安婦問題はそのように処理してはいけません。
ひとまずわが国の自尊心を生かすためには日王が来て
宗廟社稷(チョンミョサジク)で席藁待罪(犯した罪に対する処罰を待つ)をすべきです。『朝鮮王朝をこのように踏みにじり申し訳ない』と。今、
生存しているおばあさんたちがこう言っているではありませんか。
『10億円が問題なのではない』と」

  --韓国はどんな権力体制が適合すると考えるか。

「米国から帰ってきてから26年間、『王室復興運動』をしています。
わが国には大統領がいても王室が象徴的に存在する体制が必要です。
それでこそ国民の精神が集まります。
精神的支柱があれば国民の精神が乱れません。それで私が象徴的な
王室を作るために『独立軍』を募集しているのです、今」

  --独立軍の運動は具体的にどのようなことをしているのか。

「2006年全州で皇室文化財団を作りました。
開始した時には人々は気にもとめていませんでした。
歴史がわい曲されているので『李家の国か』だと言って。
『李朝、李朝』そうじゃないですか。それが誤りなのです。朝鮮王朝なのに。それで、その時に作ったものの活動していなかったが、2~3年くらい前から私が講義を全国的にするようになって人々が傾聴するようになりました。
全国に50の支部を作って会員を受け付けています」

  --立憲君主制改憲が必要だということか。

  「大統領がいても象徴的な王室を作って歴史・文化・伝統とするのです」

 --もしタイムマシンを乗って過去に戻り、実際の皇帝に
なるならどのように国を治めるか。

「それは話にもなりません。ところで王室がなくなってから100年も
経っていません。まだ5大宮があるので象徴的に生きている王孫を
そこに住まわせるようにすべきです。
建物というものは人間が生きてこそ長く残るものなので、王朝を
存続させたらよいのにと思います。本当に素晴らしい国、
伝統の国を再び作りたいです」

  --皇孫として最後の夢があるなら。

「『ヘル朝鮮』はありえない言葉です。
わが国をそのようにして低めてはいけません。歴史がある国なのに。
新世代がそのようなことをしてはいけません。それでも私たちの
祖国なのに。わが国は皆団結して統一さえすれば世界でも最高の国に
なることができます。今でも遅くはありません。
伝統と歴史を取り戻さなければなりません。
私たちの新世代が歴史をしっかりと知ってくれたらと思います」
(中央SUNDAY第493号)

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