2018年11月25日日曜日

高宗の道」は失敗した道

何だ、朝鮮日報はこのごろ自虐論調が多いぞ、それも仕方ないか、
これほど、世界に恥ずべき主張、行動が続けばこうなるわな。
高宗がロシア大使館に逃げたのは事実やわな、だが日本の保護、
併合条約は息子の純宗皇帝だろう。
高宗はハーグ密使事件で1907年に日本から退位をさせられた、
今の、韓国・朝鮮人が生半可な教育を受け過去の日本統治を受け入れず
虚構の主張も底をつき、朝鮮民族の感情にそぐわぬとかの主張は、
これも世界では通用しない・・・!!

 『コラム』 高宗の道」は失敗した道

この何日か、「高宗の道」を歩いた。
10月末から、徳寿宮通り(ソウル市中区)の救世軍ソウル第一教会
向かい側にある鉄門が午前9時に開くようになった(月曜日除く)。
そこには、旧ロシア公使館(貞洞公園)に至るおよそ120メートルの
道が出現する。
1896年2月11日に高宗が日本軍の監視を逃れて景福宮を脱出し、
ロシア公使館に向かった道の一部を復元した。正確な考証は難しい。
旧韓末に米国公使館が作った地図に「King’s Road」と記されており、

これを根拠にしたという。

都心の散策路が増えるという点は歓迎すべきことだ。しかしこの道を、

高宗が大韓帝国という近代国家を作って日本に抵抗した象徴のように
見なすというのはしっくりこない。

過去がつらくて恥ずべき歴史を直視せず、精神的に、お手軽に
克服しようとする試みのように見えるからだ。貞洞公園には、

「高宗の道を離れた。その道の終わりから大韓帝国が新たに始まった」

「近代に向かう高宗の情熱」といったセンチメンタルな文章を添えた
写真説明板が展示されている。

「高宗の道」は、現政権が過去の政権の政策を「積弊」と
規定しなかった極めてまれなケースに属する。
前々政権下の2012年3月に立案され、前政権下の16年10月に工事が
始まった。
亡国の歴史を残念に思う憐憫(れんびん)は、前政権も現政権も
大きくは変わらない。
最近放送が終了した人気ドラマ『ミスター・サンシャイン』は、
こうした感情に火を付けた。
同ドラマは高宗を、義兵に密旨を下すなど、日本の侵略に抵抗した
君主として描いた。
高宗と大韓帝国を再評価するようになった、という人も多い。

評価すべき部分がないわけではない。高宗は、
ロシア公使館に逃れてからわずか1年後、1897年2月20日に
徳寿宮(慶運宮)へ戻り、「自主独立皇帝国」大韓帝国を宣布した。
武官学校を設立し、土地調査を行うなど、文字通り改革を推進した。
高宗は無力な君主ではなく、日本の侵略がなければ大韓帝国は近代化に

成功しただろうという評価がある。
こうした解釈は韓国人に慰めを与える。だが、歴史を直視する
態度であるかどうかは疑問だ。

政治指導者の道徳は匹夫の道徳とは違う。政治家は結果に対して
重い責任を負わなければならない。
意図が良かったからといって、責任が免除されることはあり得ない。
高宗が宣言した大韓帝国はわずか8年で日本の保護国となり、
13年後には植民地へと転落した。高宗は、王家を皇家にすることには
成功したが、国家を守ることには失敗した。

亡国後の人生は恥ずべきものだ。明治天皇は詔書を下し、高宗を
「太王」、純宗を「王」とした。
高宗と彼の直系子孫は日本の下で王族となり、傍系子孫は公族と
なった。
朝鮮の王族・公族は、日本の皇族よりは下だが華族よりは高い
身分としての待遇を受けた。
高宗は、日本が与えた地位を拒否しなかった。国家は消えたのに
「李王家」は生き残った。
「王族」高宗の責任を問わないのは、日本が与えた「貴族」の地位を
受け入れたという理由で断罪された人々と比べると、公平を欠く。

当時の評価は厳しかった。
1919年の三・一運動後に成立した臨時政府は、「王族」を
擁立しなかった。
三・一運動は高宗の因山(大喪)に合わせて起きたにもかかわらず、
臨時政府は民国を選んだ。

国を奪われた君主の名を付けた道が、世界で他にあるのかどうか
分からない。
どのみち国民の税金を投じて道を作るのならば、「憐憫」程度の
水準にとどまってはならない。
亡国の原因を振り返り、恥辱の歴史を記憶する現場にすべきだ。
センチメンタルな思い出や精神的勝利に陶酔していては、
一歩も先に進めない。

李漢洙(イ・ハンス)文化部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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