2019年2月9日土曜日

韓国、まだ清算されていない路上の植民地

いいのです、直進して、迷う事無く直進して、直進に
直進していいのです。 その先に
千尋の谷があろうといいのです、民族の魂の一徹をみせるのです、
例え、民族が滅びようと民族の誇りを見せてください。
この記事、日本残滓の清算がたりないとでも、すべては
日本のせいですか。

【中央時評】韓国、まだ清算されていない路上の植民地(1)
2019年02月08日09時29分 [中央日報/中央日報日本語版]

プランジャ。五車書の読書では意味を知るすべがない。
辞典の編纂に人生を捧げても分かり得ない。
油まみれの現場用語だからだ。
マフラ、ショバ、セルモダが家族の一員だ。
故郷ではそれぞれプランジャーポンプ、マフラー、
ショックアブゾーバー、セルフスタートモーターだった単語だ。
ところがなぜこのようなみすぼらしい格好で異域の薄暗い「タマ」、
いや電球の下を徘徊(はいかい)することになったのだろうか。

日本明治時代、哲学者は見慣れない西洋抽象概念を悪戦苦闘しながら
翻訳していった。
正義・民主・社会など。しかし、後から自動車にくっついて入って
きた機械部品用語は輸入後放置され、日本整備工の好みに合うように
変態した。
その単語が自動車とともに植民地に移植された。
その終わりに単語なのか文章なのか、不思議なものが
一つくっついている。オーライ。

日帝時代の都市写真には新しく作った広い新作路を疾走する
黒い乗用車が登場する。
乗用車の後部座席には総督府の官吏が乗ったにちがいない。
その後は親日派として断罪される予定の朝鮮人だったかもしれない。
一言でまとめれば権力者だ。
車窓の外でホコリをかぶって歩くのは、汚らしく情けない朝鮮人の
民衆だった。新作路は権力の非対称空間だった。

光復(解放)後も乗用車は権力の表現と身分の象徴として残った。
道路は依然として高位にある人々の疾走空間だった。
韓国の道路に染み込んでいる不公平な出生の秘密が、連続ドラマの
最終回ではなく日常で露骨に現れる。リリリーン、リリリーン、道を
開けてください。自動車が出てくると自転車まで傲慢だった。
あそこを行くあの人、腰の曲がったご老人、まごまごしていては
大変なことになりますよ。
老弱者だろうが何だろうが、歩行者は車輪の前を退け。下がれ下がれ。

韓国都市の車道維持状態は先進国でも最上位級だ。
ソウルの幹線車道は全体が朱雀大路だ。しかし
歩道の風景は根本未詳国家の都市と特に違わない。
煩雑な構造物が広がった地雷畑で、道路の舗装状態は白頭山脈だ。
オートバイが疾走して自動車とギリギリのところで触れ合う。
自転車は車に分類すると言いながら、自転車道路は歩道に描いておく。

冬に雪が降れば夜中の車道に塩化カルシウムを巻く。すべて税金だ。
しかし「お前たちの家の前の歩道の雪はお前たちが片づけろ」と
啓蒙文面の勢いだけはいい。
片づける者がいない雪に覆われた歩道で転んだおばあさんの治療費を
地方自治体が責任を感じて代納したという美談は聞こえない。

歩道は完全開放公共空間だが、車道は自動車だけに開放された
制限的公共空間だ。
人が歩道の上に横になれば救急車が来るが、車道の上に横になれば
パトカーが来る。
車道を歩行者がうろつけば車両の通行を妨害する法律違反者に
なるだろう。
法律違反者にならずに車道を利用するには自動車を買わなければ
ならない。ガソリンも買って入れなければならない。
ところが車道は公共空間だから維持管理に税金を使う。この場合、
税金徴収・執行の理想的方法は集合的利用者が出して使うことだ。
ここに油類税が登場する。原油価格は下がったのにどうして
ガソリン代は不動なのかと言いながら、ガソリンスタンドで納付する
税金。油類税が公正なのは、車道を多く利用すればその分多く出す
絶妙の装置だからだ。ところがここに亀裂ができ始めた。

化石燃料の枯渇と大気汚染の憂慮が高まり、電気自動車が代案として
浮上した。
水素自動車にしても水素の発生にエネルギーを使わなければ
ならないから基本燃料として見れば電気自動車と特に違う
ところはない。
問題は石油の代わりに電気が燃料として使われながら油類税を通した
道路利用公正性が消えるということだ。
車道は自動車を持つ者だけが排他的だが無料で使う空間になる。
税金で維持管理しながら。

政府は電気自動車の購入に補助金まで支給して駐車費まで減免する。
乗用車の購入を推奨することだ。くやしければ出世しろ、いや
乗用車ひとつでも用意しろ。
歩行者の税金が強者の便宜のために転用される政策ではないかと
問うべきことだ。
未来基幹産業育成というのは分かるが、育成されるものが皇帝年俸、
世襲雇用だと指弾を受ける未来ではないか気になる。
電気にしても水素にしても走るのはただ自動車のみ。
歩行環境をけり飛ばし、乗用車を買えと税金を使ってあおるのは
正義・民主・社会ではない。

自動車とオートバイがあふれんばかりに疾走する都市とベビーカーを
押す歩行者が散歩する都市。
どの風景に私たちの社会、都市の未来があるのか
判断しなければならない。
安くて安全で持続可能な電気生産方式をめぐり社会葛藤が深刻だ。
答えはないので抑圧や妥協だけが残る。
そのような社会で石油使用制限の代案は電気自動車用の推奨ではなく
エネルギー消費抑制だ。
石油自動車抑制の代案は電気自動車の奨励ではなく公共交通の拡充だ。

それが安く安全で持続可能な都市に続く道だ。
政策決定権者が乗用車の後部座席から窓の外を見る限り、
都市は依然として植民地だ。
大韓民国はこのまま直進してもいいのだろうか。オーライ?

  ソ・ヒョン/建築家・漢陽(ハニャン)大学教授

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