2012年8月29日水曜日

北方領土、尖閣諸島、そして竹島

前回の北方領土の記事にロシアも気づくのか、3倍のアクセスがあった。
中国からのアクセスは過去に1度あったきり、皆無である。

今日は竹島について書きたいと思う。
韓国からのアクセスは皆無であるが???????

まず竹島周辺の地図を見ていただきたい。


竹島は島根県隠岐郡隠岐の島町に属している。隠岐島からは北西約157Km、
韓国の鬱陵島(うつりょうとう)からは約92Kmの位置(北緯37度9分30秒、東経131度55分)に在る。竹島は日本・韓国双方の大陸棚とは繋がっていない孤島であり、
島は2つの小島(西島、東島と呼ばれる)と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されている。
この2つの主島は、いずれも海面から屹立(きつりつ)した峻険な火山島で、幅約150メートルの
水道を隔てて東西に相対している。
面積は全ての島嶼(とうしょ)を合わせても約0.2平方kmで、日比谷公園ほどの大きさしかない。

西島は、海抜157メートルで円錐状をしているのに対し、東島はそれよりやや低い。
周囲は断崖絶壁をなし、船をよせつけない。
ただ東島の南端には、わずかな平地があり、島の頂上にも若干の平坦な地所がある。
飲料水は溜まり水に頼るほかなく、全島一本の立木もない。
周辺海域は対馬暖流と北からのリマン寒流の接点になっており、魚介藻類の種類、数量ともに
極めて豊富。この不毛な無人島の領有権をめぐり、日韓両国は1954年以来、
執拗な争いを続けているわけであるが、現在に至るまで竹島問題が解決されない一つの理由に、韓国の世論形勢があるというのも否めない。



鬱陵島
17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく=現・鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉(おおやじんきち)が、航海中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着した。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603-1868)から鬱陵島への渡航許可を受ける。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになった。大谷、村川両家はその後毎年交替で鬱陵島に渡り、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は78年間続けられた。当時鬱陵島へ渡るコースは、隠岐島から松島(現在の呼び方で竹島)を中継地にしていた。大谷、村川両家は、この竹島(旧・松島)の経営をも手がけていた。竹島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行っていた記録も残っている。江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出している。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。韓国もこの歴史的経緯・事実に対しては異論は出ていない)


1905年、明治政府は竹島を島根県に編入し国際法的にも日本の領土になった。しかし日本の敗戦後、GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外した。これを口実に1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得る事になる。これが日韓の竹島問題の始まりである。


韓国文献より
太宗実録
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、 且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生 

説明
韓国が主張している独島は于山島、のことであると。
いまの竹島に15戸、86人の人間が居住していると文献にかかれている。
飲料水も何もない小さな岩礁島に、これだけの人間が住めるわけがない。

つまり独島なる島は存在しないので、あり
韓国は、未だに歴代の王朝が半島の周辺の島々を把握しきれなかったのと同様
わかっていないのだろう。

日本統治時代の悔しさを、いつまでもグダグダいっているんじゃないよ???。
みっともない、情けない。
そんなに悔しいならば、日本を追い越してみろ。
8月15日になれば決ったように、反日でもやる、韓国と中國、そんなことで日本は

へこたれも、クップクもしない。

韓国も中國も近代国家への道は日本の足元にもとどいていない。
日本はアシア随一の先進国、誇りと自信を持っている。

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