2014年10月12日日曜日

ノーベル賞、そんなにほしいのか韓国

この記事、タイトルに追い越せる日本はいらないだろう、今の半島人には
未来永劫に日本に追いつき、追い越せるなんてありえないのだ。
借りに一人受賞者が出れば、日本に追いついたぞと大騒ぎでもするのだろう。
朝鮮日報と中央日報がノーベル受賞者を論じています。
中央日報のほうにいくら韓国うまれでも、彼のDNAには日本人の母の血が流れている
事を忘れているのか、分からないのか、結局は日本人に追いつくことはかなり
難しいのでは・・・・・

【コラム】追い越せる日本、追い越せない日本
ノーベル賞受賞歴に見る韓国と日本の距離

 韓国と「近くて遠い国」と言われる日本は、「近くて近い国」になるかのように見えて、また遠い国になっている。歴史認識をめぐる対立のことを言っているのではない。国の基礎がどれだけ堅固かということだ。国際化・情報化の時代にあっては、科学の水準が国の水準となる。毎年10月になると、韓国人はノーベル賞のために大騒ぎする。隣の日本から受賞者が出たときにはなおさらだ。今年のノーベル物理学賞は日本人の研究者3人が共同で受賞した。日本人3人がノーベル賞を受賞するのは、2008年の物理学賞に続き2度目だ。日本人のノーベル賞(自然科学部門)受賞者が19人(米国国籍者2人を含む)いるのに対し、韓国人の受賞者が1人もいないことから、サッカーになぞらえて「19対0」と皮肉る声も出ている。

 ノーベル賞は何も、一国の科学の水準を評価する物差しではない。ノーベル賞を受賞した偉大な科学者よりも、受賞できなかった偉大な科学者の方が何十倍も多い。それでも、心の中は穏やかではない。自然科学部門のノーベル賞受賞者の9割は、米国・ドイツ・英国・ロシア・フランス・日本の出身だ。ノーベル賞受賞者の数と、その国の国力の充実度の相関関係は否定できない。英国経済が「英国病」と言われるほど深刻な状態だった時期、英国の経済学者が相次いでノーベル経済学賞を受賞し、物笑いの種になったが、自然科学部門の賞にはそのようなことはない。

 2000年代に入り、日本人のノーベル賞受賞者は、それまでとは異なった経歴の持ち主が多くなっている。かつてノーベル賞受賞者は京都大学か東京大学の出身者だった。新入生の入学試験の点数は東京大の方が高いにもかかわらず、ノーベル賞受賞者はなぜ京都大出身者の方が多いのかという話題は、テレビのトークショーでたびたび登場する。だがこのような様相は、今では大きく変わった。東京工業大、名古屋大、東北大、長崎大、北海道大、神戸大、徳島大といった大学の出身者の合計が、京都大と東京大の合計に匹敵するようになった。東京工業大を除けば全て地方の大学だ。これは自然科学の研究の底辺がそれだけ広がったことを意味する。また、2002年にノーベル化学賞を受賞した日本人の最終学歴は地方の大学の学部卒だ。ノーベル賞(自然科学部門)の100年の歴史で、初めての「学士」の受賞者だ。

姜天錫(カン・チョンソク)論説顧問  朝鮮日報/朝鮮日報日本語版



金大中元大統領のほかにもう1人…「韓国生まれの受賞者」2人記録(1)
2014年10月12日11時23分  [中央日報/中央日報日本語版]

今年のノーベル賞受賞者が相次いで発表される中、
なぜ韓国人受賞者はいないのかとの自省の声が出ている。
2000年に金大中(キム・デジュン)元大統領がノーベル平和賞を受賞したが、
科学賞を受賞した韓国人はまだいない。だが、
ノーベル委員会で「韓国生まれ」に分類される化学賞受賞者がいる。
1987年に受賞したノルウェー系のチャールズ・ペダーセンだ。

ノーベル委員会がペダーセンを「韓国生まれ」と分類するのは、
ノーベル賞受賞者の国籍を突き詰めるのが難しいためだ。1901年に初めての
ノーベル賞が授与されてから、
▽戦争や独立などでポーランド、ベラルーシ、ソ連、ロシアのように同じ地域が
他の国に変わった場合
▽出生地と国籍が異なる場合
▽二重国籍所持者――など、国籍問題は悩みの種だ。
そこでノーベル委員会は受賞者の出身地を明らかにしている。

ペダーセンは旧韓末の1904年にノルウェー人の父と日本人の母の間に
釜山(プサン)で生まれた。
海洋エンジニアだった彼の父ブレーデ・ペーデシェンは蒸気船に乗って極東に
やってきて当時英国が掌握していた大韓帝国税関に就職した。
その後平安道(ピョンアンド)の雲山(ウンサン)鉱山が開発されるとそこに
向かいゴールドラッシュの隊列に合流した。
ペダーセンの母の安井タキノは大豆と蚕糸貿易に従事した家族とともに朝鮮に
移住しペダーセンの父と会って結婚した。

89年に死去したペダーセンがノーベル委員会に残した自身の伝記によると、
当時雲山鉱山は米国が運営していたにもかかわらず周辺に外国人学校がなかった。
ペダーセンは「雲山はシベリアトラが出没し寒い冬にはオオカミが子どもたちを
襲った所だった」と回顧した。
彼の両親は彼が8歳になった年に長崎にある修道院学校に通わせ、2年後に横浜の
セント・ジョセフ・カレッジに転校し中学と高校を卒業する。その後父親の勧めで
米国の大学に進学することにし、セント・ジョセフ・カレッジと同じマリア会が
運営するオハイオ州デイトンに向かった。化学工学を専攻したペダーセンは
マサチューセッツ工科大学で有機化学の修士学位を取った。
ペダーセンは「修士過程まで父が送った資金で通った。これからは自分で
稼がなければならない」として博士課程に進学せず総合化学会社のデュポンに
就職した。
ペダーセンは後に博士学位を持たない初のノーベル化学賞受賞者となる。
彼は53年に米国籍を取得した。

デュポンのジャクソン研究所で働いた彼は67年に別の実験をしていて偶然に
「クラウンエーテル」という新しい有機化合物を発見する。
ペダーセンはこの有機化合物が酸素原子1個が炭素原子2個に挟まれている形態で
円形に配列されていることからクラウンエーテルという名前を付けたという。
特定の原子を錠前に鍵が合うように引き寄せる点からクラウンエーテルは
酵素のような他の生化学的物質が複雑に遂行する作業を比較的簡単にまねることが
できる。
そこで科学者はクラウンエーテルの発見に敬服し、
体内ナトリウム・カリウム運搬原理などの製薬研究、大気中で
放射性ストロンチウムを除去できる環境技術研究などに役立つものと判断した。

ペダーセンは69年にデュポンでの42年間の勤務を終え定年退職したが、
彼の研究に基づいて後続研究をしたドナルド・クラム、ジャン・マリー・レーンと
ともにクラウンエーテルを発見してから20年ぶりの87年にノーベル化学賞を
共同受賞した。83歳の高齢にがん闘病で健康が悪化していたが彼は
ニュージャージーの自宅からスウェーデン・ストックホルムまで飛んで行き賞を
受け取った。
ペダーセンは受賞の感想として「商業性がないように見える研究に対しても
9年間も望む研究をさせてくれたデュポンの経営陣に感謝する」と話した。

ペダーセンの姉は日帝時代の朝鮮に残りスタンダードオイルの
済物浦(チェムルポ)事務所で働き64年に死去した。
ペダーセンはノーベル賞を受賞してから2年後の89年に死去した。
デュポンはペダーセンの業績を賛え、社内の優秀科学者に授与するペダーセン賞を
設立した。

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