時々、この朝鮮日報は妙と云うか、不思議な記事をのせるよな、今年の
初めごろか、日韓の大物の時代とか言ってた記事もあったが
36年間日本の統治の間インフラを整備し鉄道を整備し病院を立て,学校を
立て半島には日本人の多額の血税がつぎこまれたが・・・・
1950年、65年までの日韓交渉において、日本の主張に対し、韓国は
“我々にも出来たんだ”と主張したそうだが・・・・
「韓日外交の怪物」崔書勉氏に聞く
張徳秀暗殺事件、日本亡命、朴正煕の片腕
自宅の居室には「竭(けつ)忠報国(忠誠を尽くして国に報いる)」の額が
掛かっていた。
始林山人(韓国の初代副大統領、李始栄〈イ・シヨン〉の号)が
崔書勉(チェ・ソミョン)少年に書き与えたものだという。
今では体が不自由になり、電動の車いすに頼る高齢者になったとはいえ、
87歳の崔書勉氏にも「少年」と呼ばれた時代があったのだ。
「私が延禧専門学校(現在の延世大学)に通っていた19歳の
ときのことだった。
『張徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件』で投獄されると、
当時の李始栄・副大統領がこの一文を送ってくれた。
『熱心に勉強せよ(書勉)』という意味の『崔書勉』という名前も新たに
付けてくれた。その名前のとおり、生涯かけて韓日関係史を
勉強してきたわけだ」
-張徳秀暗殺(1947年)の首謀者というのは本当か。解放後、張徳秀が
南側の単独政府樹立に同意したという理由で、銃撃されたと理解しているが。
「当時私は、金九(キム・グ)に従う韓国独立党(韓独党)傘下の、
大韓学生連盟の委員長を務めており、2人の暗殺犯がその組織に加入していた。
そういう関係しかなかった。もし私が介入していたら、
事件が起きた日に逃げたはずで、そのまま家にいて捕まったりするだろうか。
無期懲役を言い渡され、1年半後に刑の執行停止で釈放された」
その後は、張勉(チャン・ミョン)博士の秘書を務め、米軍の軍用機に
乗って亡命し、東京で韓国研究院を設立、さらには韓日関係史の貴重な
史料・書籍など約20万点の収集、金大中(キム・デジュン)元大統領への
後援、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の片腕、日本政財界の人物を動かす
「韓日外交の怪物」……。
崔書勉氏自身が「現代史」なのかもしれない。
風雲児のように時代を生き、ミステリアスな部分も多い。
-金九から始めよう。金九はどういう人物なのか。
「行政家的な政治家ではなく、独立運動家として金九を見るべきだ。
インドのガンジーは、行政的な意味ではネール(インドの初代首相)に劣る。
しかし民族史的な意味で、ネールがガンジーに追い付くことはできない」
-金九は、南側の単独政府に反対した。
南北交渉を推進して失敗し、北朝鮮に利用されたという評価を受けている。
言わば、今の大韓民国政府の樹立に反対した人物になるわけだが。
「単独政府に反対したのではない。単独政府を立てるにしても、北朝鮮の
金日成(キム・イルソン)とひとまず交渉してみてこそ、名分と代表性を
手にすることができるという考えだった。実際、金九は今の韓国政府の
樹立に決定な寄与を行った」
-どういう点を言っているのか。
「戦後処理構想を話し合うカイロ会談(1943年)に出席する前、蒋介石が
金九を呼んだ。
『この先、朝鮮問題が出るはずだが、私はどう言うべきか』。当時は、
植民地朝鮮を信託統治しようという雰囲気だった。金九は『信託統治を
したら、私はまたどこかに亡命しなければならない。
朝鮮が直ちに独立することを願うのみ』と答えた。カイロでは、
蒋介石の提案で『朝鮮を適当な時期に』独立させると決定した。
そのように動かしたのは、金九の寄与だった」
-李承晩(イ・スンマン)元大統領についての評価は。
「反対する側にいたが、尊敬されるべきだ。卓越した政治家だった。
南側の単独政府は完成品ではなく、理想的なものでもなかったが、
当時の現実においてそれなりに評価されるべきだ。功罪は7対3だと思う」
-先生は、李承晩政権時代に張勉博士の秘書を務め、1957年に日本へ
亡命したと理解しているが。
「監獄でカトリックに帰依し、
盧基南(ノ・ギナム)大司教(韓国人初の司教)や張勉博士と
会うようになった。そうした縁で、張勉博士の秘書として働いた。
李承晩政権末期に、張勉勢力を除去しようとする工作があった。
その情報を知って、この方々が私に『避けているように』と言った。
米軍の軍用機で日本に密航した」
崔書勉氏が一人暮らしをしているマンションには、韓日関係の資料や書籍が
ぎっしりと詰まっている。韓国政府の研究機関や大学にも、崔書勉氏は
少なからず貴重資料を渡した。とりわけ、
安重根(アン・ジュングン)に関する資料を発掘した功績は大きい。
崔書勉氏が日本の古書店で「安応七歴史」という本を入手したことにより、
韓国で初めて「安重根伝」を出版することができた。
-日本で韓日関係史の資料収集をやるようになったきっかけは。
「当初、韓国を離れたとき、イタリアに行くことにしていた。
日本でイタリア行きの手はずを整える間、国会図書館に通った。そこで、
日本がこれまで蓄積した韓国研究の資料を目にしたのだ。韓国人として
恥ずかしかった。イタリア行きをやめて、5年間国会図書館で勉強した。
そのうちに、韓国研究院を設立して、自分でも資料を探し集めるようになった。東京・神田の古本屋通いで忙しかった」
-20万点の資料収集の財源はどこから出たのか。
「私が日本に行くときは、11号車だけだった」
-11号車?
「2本の足で行ったということ。しかし、神は日々の糧をお与えになった。
食べるだけの人間には食べ物だけを与え、本をぜひとも必要とする人間には
本まで与えた」
-中央情報部のエージェント役をすることで金を受け取っていたのか。
「日本でそのころはやった話だ。中央情報部の金だといわれそうなので、
文教部(現在の教育部、「部」は省に相当)に申請して、国会審議を経て
補助金をもらった」
-4・19(1960年4月19日。不正選挙に端を発したデモにより、当時の
李承晩大統領が下野した事件)の後、張勉政権ができたとき、
なぜ戻らなかったのか。
「張勉政権は長続きしなさそうだといううわさを聞いた。韓国からは
『仕事をする人間がいないので、早く戻ってこい』と催促されたが、
『1年だけ待ってみて戻ろう』と思った。あの方は、
太平の世にあっては立派な宰相たる人物だったが、難局には
ふさわしくなかった」
-いくらもたたないうちに5・16クーデター(1961年5月16日。朴正熙陸軍少将〈
当時〉らによる軍事クーデター)で張勉政権が倒れた。
「私は日本で、反・朴正煕政権の講演をよくやって回った。70年代初め、
当時日本に亡命していた金大中元大統領は、私のオフィスで
暮らしていたようなものだった。
朴正煕政権としては、日本との経済協力が必要な時期だったので、
頭を痛めたことだろう。当時、金山政英・駐韓日本大使が朴正煕大統領に
『崔書勉と一度会ってみるべき』と勧めたので、
私が青瓦台(韓国大統領府)に呼ばれた」
-日本大使がそんな役割を果たせるのか。
「金山大使は在任中(68-72年)、韓国のために多くの役割を果たした。
韓日関係がおかしくなったら日本外交は全て役に立たない、という哲学を
持っていた人物だ。ある日、朴正煕大統領が『一杯やろう』と青瓦台に
金山大使を呼び『日本大使も韓国を助けるべきだ。浦項製鉄の建設に関して
返事がもらえなければ、戻ってくる必要はない』といって、
佐藤栄作首相宛ての親書を託したこともあった。
金山大使は『韓国に葬ってほしい』という遺言を残していたので、
97年に韓国のカトリックの墓地に埋葬された」
-ともあれ、金山大使のあっせんで会った朴正煕大統領の第一印象はどうだった
か。
「青瓦台に入ると、ちょうど国務会議(閣議に相当)が
終わったところらしかった。会議のため応接室に持っていったソファを、
運んでいる最中だった。朴正煕大統領もソファを運ぶ手伝いをしていた。
その後、いすに座って『日照りだったが、きょう雨が何ミリか降り、大田まで
田植えをやった。もう少し降りさえすれば、水原までできるだろう。
崔院長が来て、雨も降ってくれたので、感謝している』と言った。
妙な気分だった」
-どういう対話を交わしたのか。
「朴正煕大統領に『共産主義者というのは本当か』と尋ねた」
-なぜそんな質問を?
「当時、日本の右翼は朴正煕大統領をそのように見ていたからだ
(朴正煕大統領は、かつて南労党加入などの容疑で無期懲役を言い渡され、
その後、再審で刑の執行停止により釈放された。
兄の朴相煕〈パク・サンヒ〉は、46年の大邱暴動で死亡)。
私が日本に戻ったら、ここに答えを出してやらねばならないので。
朴正煕大統領はこの質問に刺激を受けた。軍隊時代に調査を受けたが、
金鍾泌(キム・ジョンピル)がうまく処理したので誤解を受けずに済み、兄は
共産主義者かもしれないが尊敬している、というように答えた」
-最初の出会いの後、朴正煕側に付いたと理解しているが。
「朴正煕大統領が右足を組んで座ったとき、靴底に穴が見えた。
それは感動的だった。別れ際、大統領に、つけている時計を
見せてくれないかと言った。当時、日本にやって来てロレックスの時計を
買い、『ハイト(白金)』と自慢していた高級官僚や政治家のことを
思い出したからだ。大統領は『日本から部品を持ってきて、われわれが
初めて組み立てたシチズンの時計だ。
2年たっても時間がずれない』と言った。
日本に戻って講演をするとき、大統領の靴と時計の話をした」
-現在、日本の政財界の雰囲気は、先生が交遊していた時期とかなり違っている
のではないか。
「あの時代、日本の人々は、かつて自分たちがやったことを知っていて
『韓国にこれはしてやらないと』
『日本が我慢しないと』と言っていた。
韓国がうまくいってこそ日本もうまくいく、という考えがあった。
今はそうではない。
戦後体制からの『脱却』、戦後体制を乗り越えようとしている。
そういう中で、韓国人がかつて日本人に言っていたように
『お前の方が間違っていたのであって』という対応ばかりしていては駄目だ」
-安倍首相に関心が集まっているが、安倍首相の母方の祖父、
岸信介元首相はどうだったか。
「狡猾(こうかつ)な、腹の内が読めない…政治家らしい政治家だった。
太平洋戦争終盤の東条英機内閣で、岸信介は軍需省の次官を務めた。ところが
岸は戦犯として起訴されなかった。普段はぺこぺこしていた岸が、
戦争予算に印を押すのを拒否して東条内閣を倒したからだ」
-岸信介は「親韓派」に分類されているが。
「別の下心を隠していたのかもしれないが、岸は首相をやめた後も
『韓日協力委員会』をつくって役割を果たした。
私が水面下の作業をやって、延世大学から岸に名誉博士号を贈った。
授与式の会場で、牧師がこう祈りをささげた。
『神よ、こんなことがありましょうか。ある時は戦えと言っておいて、今は
恩恵を与えよとおっしゃるのですか。しかし、許せとおっしゃるのなら、
許しましょう』。
岸は『本当に感動的な日』と言った。
朴正煕政権時代、韓国から名誉学位をもらった日本人は
『翰林(かんりん)会』、勲章を授与された日本人は
『光化会』を自ら結成した。親韓派グループだったわけだ」
-安倍政権に対する展望は。
「大国は、過去の誤りを理解して反省することで1段階発展してきた。
日本が反省しないなら、それは日本の損害であり、恥ずかしい国になるだけだ。そんな日本に、韓国がひれ伏してうまく合わせようとしてはならない」
-先生は何をしてきた人間なのか。
「韓日問題の専門家、学者、教授と呼ばれもしたが、自分自身を
振り返ってみると、立派な学生だった。
学びて然(しか)る後に無知を知る…」
崔普植(チェ・ボシク)先任記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
初めごろか、日韓の大物の時代とか言ってた記事もあったが
36年間日本の統治の間インフラを整備し鉄道を整備し病院を立て,学校を
立て半島には日本人の多額の血税がつぎこまれたが・・・・
1950年、65年までの日韓交渉において、日本の主張に対し、韓国は
“我々にも出来たんだ”と主張したそうだが・・・・
「韓日外交の怪物」崔書勉氏に聞く
張徳秀暗殺事件、日本亡命、朴正煕の片腕
自宅の居室には「竭(けつ)忠報国(忠誠を尽くして国に報いる)」の額が
掛かっていた。
始林山人(韓国の初代副大統領、李始栄〈イ・シヨン〉の号)が
崔書勉(チェ・ソミョン)少年に書き与えたものだという。
今では体が不自由になり、電動の車いすに頼る高齢者になったとはいえ、
87歳の崔書勉氏にも「少年」と呼ばれた時代があったのだ。
「私が延禧専門学校(現在の延世大学)に通っていた19歳の
ときのことだった。
『張徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件』で投獄されると、
当時の李始栄・副大統領がこの一文を送ってくれた。
『熱心に勉強せよ(書勉)』という意味の『崔書勉』という名前も新たに
付けてくれた。その名前のとおり、生涯かけて韓日関係史を
勉強してきたわけだ」
-張徳秀暗殺(1947年)の首謀者というのは本当か。解放後、張徳秀が
南側の単独政府樹立に同意したという理由で、銃撃されたと理解しているが。
「当時私は、金九(キム・グ)に従う韓国独立党(韓独党)傘下の、
大韓学生連盟の委員長を務めており、2人の暗殺犯がその組織に加入していた。
そういう関係しかなかった。もし私が介入していたら、
事件が起きた日に逃げたはずで、そのまま家にいて捕まったりするだろうか。
無期懲役を言い渡され、1年半後に刑の執行停止で釈放された」
その後は、張勉(チャン・ミョン)博士の秘書を務め、米軍の軍用機に
乗って亡命し、東京で韓国研究院を設立、さらには韓日関係史の貴重な
史料・書籍など約20万点の収集、金大中(キム・デジュン)元大統領への
後援、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の片腕、日本政財界の人物を動かす
「韓日外交の怪物」……。
崔書勉氏自身が「現代史」なのかもしれない。
風雲児のように時代を生き、ミステリアスな部分も多い。
-金九から始めよう。金九はどういう人物なのか。
「行政家的な政治家ではなく、独立運動家として金九を見るべきだ。
インドのガンジーは、行政的な意味ではネール(インドの初代首相)に劣る。
しかし民族史的な意味で、ネールがガンジーに追い付くことはできない」
-金九は、南側の単独政府に反対した。
南北交渉を推進して失敗し、北朝鮮に利用されたという評価を受けている。
言わば、今の大韓民国政府の樹立に反対した人物になるわけだが。
「単独政府に反対したのではない。単独政府を立てるにしても、北朝鮮の
金日成(キム・イルソン)とひとまず交渉してみてこそ、名分と代表性を
手にすることができるという考えだった。実際、金九は今の韓国政府の
樹立に決定な寄与を行った」
-どういう点を言っているのか。
「戦後処理構想を話し合うカイロ会談(1943年)に出席する前、蒋介石が
金九を呼んだ。
『この先、朝鮮問題が出るはずだが、私はどう言うべきか』。当時は、
植民地朝鮮を信託統治しようという雰囲気だった。金九は『信託統治を
したら、私はまたどこかに亡命しなければならない。
朝鮮が直ちに独立することを願うのみ』と答えた。カイロでは、
蒋介石の提案で『朝鮮を適当な時期に』独立させると決定した。
そのように動かしたのは、金九の寄与だった」
-李承晩(イ・スンマン)元大統領についての評価は。
「反対する側にいたが、尊敬されるべきだ。卓越した政治家だった。
南側の単独政府は完成品ではなく、理想的なものでもなかったが、
当時の現実においてそれなりに評価されるべきだ。功罪は7対3だと思う」
-先生は、李承晩政権時代に張勉博士の秘書を務め、1957年に日本へ
亡命したと理解しているが。
「監獄でカトリックに帰依し、
盧基南(ノ・ギナム)大司教(韓国人初の司教)や張勉博士と
会うようになった。そうした縁で、張勉博士の秘書として働いた。
李承晩政権末期に、張勉勢力を除去しようとする工作があった。
その情報を知って、この方々が私に『避けているように』と言った。
米軍の軍用機で日本に密航した」
崔書勉氏が一人暮らしをしているマンションには、韓日関係の資料や書籍が
ぎっしりと詰まっている。韓国政府の研究機関や大学にも、崔書勉氏は
少なからず貴重資料を渡した。とりわけ、
安重根(アン・ジュングン)に関する資料を発掘した功績は大きい。
崔書勉氏が日本の古書店で「安応七歴史」という本を入手したことにより、
韓国で初めて「安重根伝」を出版することができた。
-日本で韓日関係史の資料収集をやるようになったきっかけは。
「当初、韓国を離れたとき、イタリアに行くことにしていた。
日本でイタリア行きの手はずを整える間、国会図書館に通った。そこで、
日本がこれまで蓄積した韓国研究の資料を目にしたのだ。韓国人として
恥ずかしかった。イタリア行きをやめて、5年間国会図書館で勉強した。
そのうちに、韓国研究院を設立して、自分でも資料を探し集めるようになった。東京・神田の古本屋通いで忙しかった」
-20万点の資料収集の財源はどこから出たのか。
「私が日本に行くときは、11号車だけだった」
-11号車?
「2本の足で行ったということ。しかし、神は日々の糧をお与えになった。
食べるだけの人間には食べ物だけを与え、本をぜひとも必要とする人間には
本まで与えた」
-中央情報部のエージェント役をすることで金を受け取っていたのか。
「日本でそのころはやった話だ。中央情報部の金だといわれそうなので、
文教部(現在の教育部、「部」は省に相当)に申請して、国会審議を経て
補助金をもらった」
-4・19(1960年4月19日。不正選挙に端を発したデモにより、当時の
李承晩大統領が下野した事件)の後、張勉政権ができたとき、
なぜ戻らなかったのか。
「張勉政権は長続きしなさそうだといううわさを聞いた。韓国からは
『仕事をする人間がいないので、早く戻ってこい』と催促されたが、
『1年だけ待ってみて戻ろう』と思った。あの方は、
太平の世にあっては立派な宰相たる人物だったが、難局には
ふさわしくなかった」
-いくらもたたないうちに5・16クーデター(1961年5月16日。朴正熙陸軍少将〈
当時〉らによる軍事クーデター)で張勉政権が倒れた。
「私は日本で、反・朴正煕政権の講演をよくやって回った。70年代初め、
当時日本に亡命していた金大中元大統領は、私のオフィスで
暮らしていたようなものだった。
朴正煕政権としては、日本との経済協力が必要な時期だったので、
頭を痛めたことだろう。当時、金山政英・駐韓日本大使が朴正煕大統領に
『崔書勉と一度会ってみるべき』と勧めたので、
私が青瓦台(韓国大統領府)に呼ばれた」
-日本大使がそんな役割を果たせるのか。
「金山大使は在任中(68-72年)、韓国のために多くの役割を果たした。
韓日関係がおかしくなったら日本外交は全て役に立たない、という哲学を
持っていた人物だ。ある日、朴正煕大統領が『一杯やろう』と青瓦台に
金山大使を呼び『日本大使も韓国を助けるべきだ。浦項製鉄の建設に関して
返事がもらえなければ、戻ってくる必要はない』といって、
佐藤栄作首相宛ての親書を託したこともあった。
金山大使は『韓国に葬ってほしい』という遺言を残していたので、
97年に韓国のカトリックの墓地に埋葬された」
-ともあれ、金山大使のあっせんで会った朴正煕大統領の第一印象はどうだった
か。
「青瓦台に入ると、ちょうど国務会議(閣議に相当)が
終わったところらしかった。会議のため応接室に持っていったソファを、
運んでいる最中だった。朴正煕大統領もソファを運ぶ手伝いをしていた。
その後、いすに座って『日照りだったが、きょう雨が何ミリか降り、大田まで
田植えをやった。もう少し降りさえすれば、水原までできるだろう。
崔院長が来て、雨も降ってくれたので、感謝している』と言った。
妙な気分だった」
-どういう対話を交わしたのか。
「朴正煕大統領に『共産主義者というのは本当か』と尋ねた」
-なぜそんな質問を?
「当時、日本の右翼は朴正煕大統領をそのように見ていたからだ
(朴正煕大統領は、かつて南労党加入などの容疑で無期懲役を言い渡され、
その後、再審で刑の執行停止により釈放された。
兄の朴相煕〈パク・サンヒ〉は、46年の大邱暴動で死亡)。
私が日本に戻ったら、ここに答えを出してやらねばならないので。
朴正煕大統領はこの質問に刺激を受けた。軍隊時代に調査を受けたが、
金鍾泌(キム・ジョンピル)がうまく処理したので誤解を受けずに済み、兄は
共産主義者かもしれないが尊敬している、というように答えた」
-最初の出会いの後、朴正煕側に付いたと理解しているが。
「朴正煕大統領が右足を組んで座ったとき、靴底に穴が見えた。
それは感動的だった。別れ際、大統領に、つけている時計を
見せてくれないかと言った。当時、日本にやって来てロレックスの時計を
買い、『ハイト(白金)』と自慢していた高級官僚や政治家のことを
思い出したからだ。大統領は『日本から部品を持ってきて、われわれが
初めて組み立てたシチズンの時計だ。
2年たっても時間がずれない』と言った。
日本に戻って講演をするとき、大統領の靴と時計の話をした」
-現在、日本の政財界の雰囲気は、先生が交遊していた時期とかなり違っている
のではないか。
「あの時代、日本の人々は、かつて自分たちがやったことを知っていて
『韓国にこれはしてやらないと』
『日本が我慢しないと』と言っていた。
韓国がうまくいってこそ日本もうまくいく、という考えがあった。
今はそうではない。
戦後体制からの『脱却』、戦後体制を乗り越えようとしている。
そういう中で、韓国人がかつて日本人に言っていたように
『お前の方が間違っていたのであって』という対応ばかりしていては駄目だ」
-安倍首相に関心が集まっているが、安倍首相の母方の祖父、
岸信介元首相はどうだったか。
「狡猾(こうかつ)な、腹の内が読めない…政治家らしい政治家だった。
太平洋戦争終盤の東条英機内閣で、岸信介は軍需省の次官を務めた。ところが
岸は戦犯として起訴されなかった。普段はぺこぺこしていた岸が、
戦争予算に印を押すのを拒否して東条内閣を倒したからだ」
-岸信介は「親韓派」に分類されているが。
「別の下心を隠していたのかもしれないが、岸は首相をやめた後も
『韓日協力委員会』をつくって役割を果たした。
私が水面下の作業をやって、延世大学から岸に名誉博士号を贈った。
授与式の会場で、牧師がこう祈りをささげた。
『神よ、こんなことがありましょうか。ある時は戦えと言っておいて、今は
恩恵を与えよとおっしゃるのですか。しかし、許せとおっしゃるのなら、
許しましょう』。
岸は『本当に感動的な日』と言った。
朴正煕政権時代、韓国から名誉学位をもらった日本人は
『翰林(かんりん)会』、勲章を授与された日本人は
『光化会』を自ら結成した。親韓派グループだったわけだ」
-安倍政権に対する展望は。
「大国は、過去の誤りを理解して反省することで1段階発展してきた。
日本が反省しないなら、それは日本の損害であり、恥ずかしい国になるだけだ。そんな日本に、韓国がひれ伏してうまく合わせようとしてはならない」
-先生は何をしてきた人間なのか。
「韓日問題の専門家、学者、教授と呼ばれもしたが、自分自身を
振り返ってみると、立派な学生だった。
学びて然(しか)る後に無知を知る…」
崔普植(チェ・ボシク)先任記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
0 件のコメント:
コメントを投稿